「もう足がパンパン。今の力ではこれが精いっぱい」。
1995年、陸上の世界選手権イエテボリ(スウェーデン)大会。男子400メートル障害で日本人初のファイナリストになった山崎一彦は、7位で終えた決勝レース後、苦笑いを浮かべながら言った。
予選で日本新記録を出したが、準決勝、決勝とタイムを落とした。一方、メダルを争う選手たちは決勝に照準を合わせてタイムを上げてきた。走力と経験が決定的に足りない。“真の世界”を肌で感じた彼は、翌96年、日本人でただ1人、世界最高峰の欧州グランプリ(GP)を転戦した。
その大会に私も同行取材した。今も記憶に残っているのが、彼が履いていた“指付き靴下”。つま先から5本の指に分かれ、底に滑り止めが貼り付けてあった。「ハードルを越える時、親指にかかる力が大きい。これを履くとシューズの中でぶれない。僕が考えました」。その試行錯誤に「世界に挑む」という執念がにじんでいた。
驚いたのは欧州GPの過酷日程だった。ローザンヌ(スイス)→オスロ(ノルウェー)→ストックホルム(スウェーデン)と中2、3日の転戦。長距離移動と気候の変化に体重が4キロも減った私は、ズボンがずり落ちるためおなかにタオルを巻いて取材した。こんなハードな戦いを世界トップは続けていたのだ。「世界で上位を狙うには合宿するより、世界トップと経験を積むのが重要だと思った」。転戦を終えた山崎の言葉には実感がこもっていた。
16日に東京・国立競技場で行われた世界選手権の男子110メートル障害決勝で、パリ五輪に続いて5位に入賞した村竹ラシッドを取材しながら、30年も前の記憶がよみがえってきた。村竹を指導しているのが山崎だったからだ。
村竹も今季から世界最高峰のダイヤモンドリーグ(DL)を転戦して、世界の強豪としのぎを削ってきた。メダルに0秒06まで肉薄した愛弟子の走りには、きっと山崎の遠い現役時代の試行錯誤と、過酷な世界での経験も礎になっているのだろう。現在、日本陸連の強化委員長の要職にある山崎は「悔しいですが、やっぱり実力通りだと思います」と冷静だった。
30年前、決勝でメダルに手が届かなかった山崎は「これが精いっぱい」と苦笑いを浮かべた。東京で村竹は「人生でこんなに悔しいことはないかもしれない」と号泣した。その大粒の涙に、日本の確かな成長を見た気がした。そして、きっとこの悔し涙を笑顔で振り返る日がくるに違いないと思った。【首藤正徳】(敬称略)(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)














