沖縄で生まれ育った4年生が、最後の献身を果たそうとしている。
第99回東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝、1月2~3日)に出場する帝京大・比嘉良悟(那覇西)は、出走エントリーをあと1歩で逃した最上級生。高校まではテレビで箱根駅伝を見たことがなく、大学1年で初めてその臨場感を味わった。あれから3年。チームメートから愛される男が歩んできた日々に迫った。
■ニューイヤー駅伝が箱根?
押し寄せる人の波を。肌で感じた熱気を。ずっと忘れられずにいる。
2020年1月2日。1年生だった比嘉は、遠藤大地(当時2年)のタイムを計測するため、3区の沿道に立っていた。
「初めてあんなにも人で歩道が埋め尽くされている光景を見ました。たくさんの人が関心を寄せている大会なんだなと。国際通りとは比にならないくらい、人で埋まってたんで」
柔らかく笑って、静かに回想する。「これが箱根駅伝なんだ」。比嘉にとって、強烈な実感が湧き上がるのは、必然だったのかもしれない。
「沖縄では箱根駅伝は放送してなかったので。入学するまで、テレビでも見たことがなかったんです」
東京から南西へ1500キロ。比嘉は琉球の地で生まれた。
バスケットボール部だった中学時代は、校内で駅伝チームを結成し、大会にも出場した。寄せ集めの即席集団だったが、走ることは楽しかった。
ただ当時は、箱根駅伝を目指すことになるとは思ってもみなかった。
「箱根駅伝というものがあるのは知っていたんですけど、箱根駅伝が何なのかはわからなくて」
沖縄には日本テレビ系の放送局がない。そのため、地上波で箱根駅伝の中継を見ることはなかった。
だからずっと、勘違いをしていた。
「ニューイヤー駅伝はテレビでやっていたので、それを箱根駅伝だと思って見ていました」
控えめに笑い、「中学くらいまでそう思っていました」と正直に明かす。
そんな少年は、走る楽しさを胸に、那覇西高で陸上部へ入部した。めきめきと力をつけ、高校3年時の1月には、全国都道府県対抗駅伝に出場。沖縄代表として4区を出走した。
小さな自信を積み重ね、“ニューイヤー駅伝を箱根駅伝だと思っていた男”は、帝京大の門をたたいた。
しかし、総合4位に食い込んだこともある強豪に入ると、力不足を突きつけられた。
■2年でハーフマラソンに特化
入学当初の5000メートルのタイムは15分10秒。それに対し、同学年の北野開平(須磨学園)や新井大貴(前橋育英)らは、14分30秒を切るペースで走っていた。
「1年生から3年生まで、ずっと苦しみました」
故障を抱えているわけではなかったが、練習についていくことができない。春が過ぎ、夏も過ぎた。
引き離されていたチームメートの背中に、ようやく近づいたのは、入部して半年がたった頃だった。
10月の第2週目。400メートル×20本のポイント練習。
いつもは15本前後で離脱していたが、初めて同じペースで消化した。
「今でも覚えています。試合で自己ベストを出すよりもうれしかったです」
その時の感慨が、努力の源になった。
光が差し始めたかに思えた大学1年の秋。しかし、その後もなかなか差が埋まらない。
大学2年になり、決断を下した。
「箱根駅伝に近づくにはハーフマラソンしかない」
箱根駅伝は、1区間あたり21キロ前後の区間が続く。ハーフマラソン(21・0975キロ)に特化することで、可能性を高められると思った。
沖縄出身で箱根路を出走した選手は、数えるほどしかいない。比嘉と同学年の沖縄出身者で、関東の大学で陸上を続けたのは「4人だけ」という証言も、それを裏付ける。
■自己ベストを2分26秒も短縮
タイムが伸びない日々。やっぱり、自分には才能がないのかな。下を向く日には、中野孝行監督の言葉を思い出した。
「長い目で見よう。続けることが大事。沖縄の選手はこれまでチャンスがなかっただけで、みんなと平等にチャンスはあるから」
いつも自分の先を行く同学年の仲間にも、救われていた。
「1年生の頃から、一番声をかけてくれたのが同期でした」
同期11人の支えが、陸上人生を延命させていた。
そうして迎えた大学4年のシーズン。比嘉の努力は結実し始める。
22年7月の北海道・士別ハーフマラソン。
66分台を狙ったレースで、64分32秒をマークした。従来の自己ベストを2分26秒も更新。同レースでは、箱根駅伝で出走経験のある早大・石塚陽士(2年)や、大学の先輩の畔上和弥(26=現トヨタ自動車)を上回った。
「自信がつきました。そこからは調子を落とさずに、選抜合宿にも行きました」
故郷から2000キロ以上離れた北の大地で、比嘉はこれまでにない手応えを得ていた。
練習への姿勢も変わった。1万2000メートルのペース走後に組み込まれた2000メートルの全力走も、1着にこだわった。
「3年生までは、無難に『自分の中の全力でいいや』って。でも4年生になって、前に出よう、前に出ようってなって」
箱根駅伝に出走できるかもしれない。希望は膨らんだ。
その矢先に、体がいうことを聞かなくなった。
■高熱で選考合宿に参加できず
16人の出走エントリー発表まで1カ月を切った11月後半。蓄積していた疲労が、反動となって体に表れた。
体調を崩し、高熱が2週間以上も続いた。11月末から始まる大島での選考合宿には、とても参加できる状態ではなくなった。
その時点で、受け入れなければならない結末を悟った。
12月10日の朝練習。多摩丘陵の小高い練習場で、エントリーメンバーが告げられた。
最後まで、比嘉の名が呼ばれることはなかった。師走の冷たい風が身にしみた。
それから5日後。12月15日の箱根駅伝取材会。
エントリー入りした山田一輝(4年=佐賀・白石)は、正直な心境を吐露していた。
「4年生にも多く入ってほしかったので。一緒に箱根を走りたかったなと思います」
4年生は7人の選手がメンバーから外れた。
「箱根駅伝の表舞台はかっこいいところもあるんですけど、努力が報われないところもある気がしています」
苦楽をともにした戦友の言葉が、会場の片隅で重く響く。
そんな時、山田は自ら、比嘉の話を切り出した。
「メンバーに入っていないんですけど、比嘉はほんとに優しくて、何でも話しやすくて。後輩もすごく頼っていますし、自分たちも頼っています」
レース後には、いち早く「よかったね」と連絡をくれるのだという。「それもうれしいです」。笑顔でそう話していると、山田はおもむろに立ち上がった。
「比嘉、呼んできましょうか」
自分の取材を差し置き、メンバーから外れた同期を呼びに行った。
そして、ステージ裏から現れたのが、会場の設営準備をサポートしていたスーツ姿の比嘉だった。
■「やってみたら意外とできる」
陸上競技場へ移動し、ウエアに着替え直した比嘉は、4年間をゆっくりと回想した。
実は大学1年生で箱根路の沿道に立った時、「自分も絶対に走りたい」とは思わなかったのだという。
「みんなすごすぎて、走れないと思いました。厳しいだろうなって。諦めてはなかったですけど、心のどこかにはありました」
そんな中、仲間や監督の鼓舞が励みになった。ハーフマラソンにも専念し、自分を諦めなかった。
あと1歩で出走権を逃したが、あと1本でたどり着くところまでは成長した。
「やってみたら、意外とできるもんだなって気づきました」
真摯(しんし)に競技に打ち込む傍らで、チームメートには優しく接し続けた。沖縄で身をもって触れてきた人のつながりを、大切にしたいと思った。
「ここに来て、みんな“他人”だなって思いました。仲間なので、もっと仲良くしてもいい。そのきっかけになれればいいなって」
真剣な表情で明かしつつ、「4年生は締める人と緩い人がいて、ただ単に僕は緩い側の人間なので」と自嘲気味に笑った。そう付け足す表情に、チームメートから愛される理由が詰まっていた。
大学で陸上競技からは退く。春からは社会人として、都内で働く。
競技者としての最後の大舞台でも、尽力し続ける。
「箱根ではサポート役です。チームのためにできることをやりたいです」
沖縄で生まれ育ったランナーは、つとめて穏やかな口調で、かなわなかった夢舞台を見据える。
チームメートは知っている。
4年間の成長を。温かい人柄を。懸けてきた思いを。
比嘉に救われてきた仲間は、懸命にタスキをつなぐ。思いをつないでいく。【藤塚大輔】