明大・善波達也前監督(57)が最後の1日を終えた。朝日が昇るグラウンドで、選手から贈られた薄紫の花束を大切そうに抱く。午前5時半から始まった練習は、7時過ぎに終わった。監督として12年でリーグ優勝9度、全日本大学選手権優勝1度、明治神宮大会を2度制した。それにちなみ、選手から12回、胴上げされた。うれしそうに「胴上げに酔ったよ」と言うしぐさに、慕われる人柄がにじむ。

監督のバトンを田中武宏新監督(58)に無事に引き継げた安堵(あんど)感もあったのだろう。今まで話さなかった楽しくも、生々しい思い出をよどみなく披露してくれた。

その核心は阪神高山俊(日大三→明大→15年ドラフト1位)との思い出だった。「ウハハハハ」。監督特有の笑い声が絶えない独演会になった。

大学3年時の高山は、平塚で行われた全日本の代表選考合宿に参加していた。代表監督は明大監督の善波氏が兼務していた。高山は合宿中打てなかった。打てない高山を選ぶわけにはいかない。だが、選考から漏れた高山の傷心ぶりは異様だったと述懐する。

選考合宿後、高山は他の明大の選手らとともに、食事を取るために善波監督の自宅に立ち寄っていた。しばらくして、善波監督が遅れて帰宅すると、監督夫人と、監督の娘が「お父さん、高山君が大変」と飛び付いてきた。

急いで自宅に入ると、高山が椅子にぐにゃりともたれかかり、生気を失っている。同じ食卓には明大OBもいる。それでも、落選のショックに高山のメンタルは崩壊していた。善波監督は「確かにこりゃだめだなと。今風の言葉で言えば、『やばい』状況でした」と振り返った。すぐに高山に「打てないやつを選べないだろ」と声をかけるが、高山からはほぼ“生体反応”がない。見かねた善波監督は「来年、候補合宿に出られたらまたしっかりガンバレ」と、声をかけずにいられなかった。

そして翌年、高山は再び代表候補合宿に参加するが、またしても紅白戦で打てない。「確か2日間で6打席とか、7打席立ったと思いますが打てなかったんです」。どうしたものかと思っていたら、コーチから「高山はどうしますかね?」と聞かれ、善波監督も思いあぐねた。「全日本のチームを預かっているのですから、高山にだけアドバイスはできないなと。ただ、ふと傍らを見ると、そこに高山がいたものですから、とっさに『外の球をセンターへ引っ張って打って来い』と声をかけたんですね。そしたら、その通りに外の球をセンターへ見事に打ち返して。そしたら、そのコーチも『世話が焼けますね。でも、打つんだから入れたらどうですかね』と言ってくれて」。まさに、最後のチャンスで打ったセンター返しが、高山の首をつなげた。

3年時に監督宅で豪快にメンタルダウンしていた高山の姿を鮮明に覚えていた監督夫人は、4年の合宿が始まる時に善波監督に頼み込んでいた。「高山君、選んであげてよ」。

このエピソードまでは楽しそうに話していたが、夫人のくだりを話し終えると、善波前監督は瞬時にハッと我に返ったような顔をしてこう言った。「それ(監督夫人の口添え)で選んだわけじゃありませんから」と。そう言いながら、右手を左右に振ってみせた。

記者はとっさに「分かってます」と言うと、善波前監督は再び楽しそうに「いやあ、高山の話でこんなに場が持つとは思いませんでした。楽しい思い出です」と言ってまた笑った。

明大が大好きで、尊敬する故島岡御大の教えを大切にしてきた明大野球部に、善波前監督は最後の最後まで愛情を注ぎ、大役を終えた。その瞬間に偶然にも居合わせたことで、めったに聞けない裏話を、素晴らしい雰囲気の中で知った。「そうか、今日はクリスマスイブでしたね」。そう言って善波前監督は本当に楽しそう。爽やかな、すがすがしい監督退任の時だった。

15年11月、東京6大学野球でリーグ最多となる128安打を放った明大・高山俊(右)は善波監督と共に島岡吉郎氏のレリーフの前で記念撮影
15年11月、東京6大学野球でリーグ最多となる128安打を放った明大・高山俊(右)は善波監督と共に島岡吉郎氏のレリーフの前で記念撮影