逃がした魚は大きすぎた…。球界の大ニュースと言えば球団身売り、監督交代、その次がスター選手の引退報道だろう。「空白の1日」で社会的な問題に発展した末、江川とのトレードで阪神に移籍した小林繁(10年1月に57歳で死去)は13勝した1983年(昭58)オフ、突然引退を表明した。当時トラ番2年目だった元大阪・和泉市長の井坂善行氏(66)は、シーズン中の7月、小林から引退への決意を聞かされていた。

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「あー暑いわ。のど渇いた。アイスコーヒー、おごってよ」

もともと浅黒い顔色だが、梅雨明けの日差しを受けた小林は真っ黒に焼けていた。試合前練習のあと、ロッカーに上がる通路で、そう私に話しかけてきた。

甲子園球場の関係者専用の喫茶「蔦」。当時の選手はロッカーとグラウンドの行き来で必ず、「蔦」の前を通る動線になっていた。

阪神が日本一に輝く2年前、83年夏のことだった。「空白の1日」による江川とのトレードで阪神に移籍して5年目。巨人のエースから阪神のエースとなった小林が、目のあった私に声をかけてきたのである。

初めてではなかったが、頻繁にあることでもなかった。2人で「蔦」に入ると、まだ営業が始まったばかりで、店内には誰もいなかった。奥まったテーブルに2人で座り、アイスコーヒーを2つ注文した。たわいない世間話の後、話題を変えてきたのは小林だった。

「なぁ井坂、オレ、やっぱり15勝できなかったら、やめるよ。男が1度口にしたことだから…」。

前年のオフ、小林はあるイベントに参加した時、83年のシーズンに向けて、「15勝できなかったら引退する」と語った。まだ30歳。冗談交じりの顔つきだったが、スポーツ紙は「阪神優勝に向けて引退覚悟の悲壮な決意」と報じた。

その翌年、シーズン半ばに再び聞いた引退の2文字。正直、真意は計りかねた。試合開始前、本社デスクに引退発言を伝え、相談した。デスクも私もあらゆる角度から切り込んだが、決定的な「ウラ取り」ができなかった。前年のオフと同じように「後半戦に賭けるエースの覚悟」という記事が2面に掲載された。

この年の6月末時点で、小林は8勝を挙げていた。巨人西本聖の9勝に次ぐ成績で、15勝は十分に可能性のある数字だった。だが13勝に終わると10月29日、正式に現役引退を発表した。その3カ月も前、いつもより真顔だったのが気になりながら…。しかも1対1で再び「引退」という言葉を聞きながら…。スクープにできないまま、共同記者会見の場に座った。

その年の暮れ、小林は大阪・北新地に北海道料理専門店とナイトクラブを同時にオープンした。招待状をいただいたので、オープン初日にのぞいた。招待客で満席の中、少しだけ相手をしていただいた。

「せっかくお前に教えてあげたのに、書けなかったんだな」

逃がした魚はデカかった…という苦い思い出。苦いと言えば、あのアイスコーヒー。伝票を持ってレジに行くと、いつの間に書いたのか、「タイガース19」という支払いのサインが記されていた。(敬称略)

◆井坂善行(いさか・よしゆき)1955年(昭30)2月22日生まれ。PL学園(硬式野球部)、追手門学院大を経て、77年日刊スポーツ新聞社入社。阪急、阪神、近鉄、パ・リーグキャップ、遊軍記者を担当後、プロ野球デスク。阪神の日本一、近鉄の10・19、南海と阪急の身売りなど、在阪球団の激動期に第一線記者として活躍した。92年大阪・和泉市議選出馬のため退社。市議在任中は市議会議長、近畿市議会議長会会長などを歴任し、05年和泉市長に初当選、1期4年務めた。現在は不動産、経営コンサルタント業。PL学園硬式野球部OB会幹事。

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