16年ドラフトは、「ジャスティス」が中心だった。創価大・田中正義投手が最速156キロの本格派右腕として目玉的存在で注目された。5球団競合の末に、ソフトバンクに入団した。しかし待っていたのは、苦悩の日々。「ドラ1」の重圧とどう向き合い、乗り越えてきたのか。田中が偽らざる本音を語った。(全文3166文字)

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5球団競合のドラフト1位―。その看板は何年たってもつきまとう。16年のドラフト会議、その主役は間違いなく創価大・田中正義投手だった。

最速156キロを誇った大型右腕は、大学3年の頃から「来年ドラフトの超目玉」と騒がれた。高校時代は主に外野手。大学から本格的に投手に転向していた田中自身は、沸き立つ周囲に戸惑いもあった。

田中 すごい、やけに周りの評価が高いなというのはずっと思いながら野球をやっていて。そこの難しさというか。自己評価と周りの評価の違いがすごく大きかった。悩みながらずっとやっていた記憶があります。

「ドラ1間違いなし」の評価は重圧になり、その評価に追いつこうともがいた。4年春には右肩を痛め、夏場には脚の肉離れも発症。「みなさんが思うほど、自分に下している評価は高くない。プロでの姿は想像がつかない」と漏らしたこともあった。大学最終年は不本意なシーズンになったが、圧倒的な評価は揺るがなかった。

田中 自分では課題があったり、ここがダメだなと思いながらやっているんですけど、周りの評価はずっと高いままなので。本当はそんなんじゃないのになというのはありました。プレッシャーはあったと思います。

米大リーグへの挑戦も考えたことがあったが、最終的には「監督といろいろ話をして、普通に考えたら、それが最善だなと」と、進路を国内1本に絞った。「自分が何かできるわけではない。人事を尽くして天命を待つ」。12球団OKの姿勢で、運命の日を迎えた。

「本当に呼ばれるのかなというドキドキはありました」。不安と期待に入り交じった思いを抱き、中継画面を見つめた。オリックス山岡、中日柳、楽天藤平…。一時は12球団1位の可能性もあるとみられていた中で、なかなか田中の名前が呼ばれなかった。最初の入札は7番目のロッテ。そこから次々に入札があり、ソフトバンク、巨人、日本ハム、広島が続いた。

交渉権をかけた抽選では、2番目にくじを引いたソフトバンク工藤監督が当たりを引き当てた。田中は「緊張感と、ホッとした感じとか、いろいろ混ざっていました」。周囲の評価とのギャップを感じながらも「予定通り」に、ドラフト1位でプロへの門が開かれた。

田中のプロ生活は、順風満帆にはほど遠かった。

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