プロ野球阪神タイガースを、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男(よしだ・よしお)さんが3日午前5時16分に兵庫・西宮市の病院で脳梗塞のため亡くなった。91歳だった。2000年から日刊スポーツ客員評論家に就任し、健筆をふるった。担当として接してきた寺尾博和編集委員が故人を悼んだ。

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最後に吉田さんに会ったのは年末だった。すでに病床にあったが、深く息をし、わたしの手を握り返した。お互い涙がほおを伝った。いつかまた息を吹き返すと信じていただけに、無念の別れになった。

背番号「23」は阪神の永久欠番。2月3日に天国に旅立ったのは、野球の神様の導きかもしれない。

阪神タイガースを愛した人。「今年のキャンプはどうでしょうなあ」。はんなりとした京都弁で交わす会話の中心は、いつも野球で、阪神だった気がする。

高知安芸でキャンプを開催していた当時、宿舎前の金柑の実を口に含んでこう言った。「今年のできは甘みが違うからいけまっせ」。験担ぎも欠かさなかった。

小さな体で「今牛若丸」の異名を取った吉田さんは、とことん守備にこだわる人だった。現役時代にヤンキースが来日した際は「ファインアート」と表現されたほど、華麗なプレーだったようだ。

00年に日刊スポーツの客員評論家に就任。甲子園のネット裏から一緒に見たある試合の併殺プレーで、問いただされたことがある。「あんた、今のセカンド、どっちの足でベースタッチしたかわかりますか?」

記者席から二塁ベース付近まで、テレビのスローならともかく、一瞬のことで不覚にも答えることができなかった。「わたしらこれで飯食ってますねん」。野球記者として背筋が伸びたし、阪神戦の取材は気が抜けなかった。

人気球団である阪神監督のつらさは骨身にしみている。試合に負けると自宅に電話をかけてきたファンから「アホ! ボケ!」と怒鳴られた。東京育ちの篤子夫人は「関西弁が外国語のように聞こえた」と振り返るほどだった。

ただ85年の日本一を語るときの吉田さんはうれしそうだった。監督の胴上げがクルリと裏返しになるぎこちなさもあったが「なかには下から引っ張るもんもいるんです。人生の縮図ですわ」と苦笑していた。

「監督業といいますがね、現役試合の威光だけで引っ張れるほど甘いもんじゃありませんで。それにその球団の歴史の一コマに過ぎませんわ」

23年に岡田監督で日本一になった瞬間、自宅の居間から「岡田、おめでとう!」と電話をかけた。まだ監督はテレビの向こうでインタビューを受けている最中だったが、画面に向かって何度も語りかける目には涙がたまっていた。

吉田さんは野球界では天皇、皇后両陛下と関わった数少ない人物だった。1970年の日本シリーズ、ロッテ-巨人(東京スタジアム)、71年巨人-阪急(後楽園)で、現在の天皇陛下である浩宮さまの野球観戦で2度も解説役を務めている。仏ナショナルチームの監督時代には、後に浩宮さまと婚約し、皇后になる小和田雅子さんらとロンドン市内で出会って野球談議に花を咲かせた。後にお礼の手紙も届いた。

パリではその功績をたたえ、現在も「吉田チャレンジ」と銘打った国際大会が開催されている。その運営にご一緒してきたが、野球にこだわり続ける姿には頭が下がった。プロ・アマを通じて発展に貢献。それはまさに野球人のあるべき姿だった。さらば牛若丸…。【寺尾博和】