2月10日に、新日本プロレスの元取締役企画宣伝部長で“平成の仕掛け人”と呼ばれた永島勝司さんが亡くなった。82歳だった。

スポーツ新聞で“編集の司令塔”たる整理部長から、一記者としてプロレスを担当。22年10月に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんと同い年で意気投合。88年に新日本プロレスに入社して、東京ドーム興行、北朝鮮・平壌での「平和の祭典」、UWFインターとの対抗戦。そして専修大後輩の長州力(73)とWJの旗揚げと、裏方として昭和から平成にかけてのプロレス界を盛り上げた。

「オヤジ」「ゴマシオ」のニックネームで親しまれたが、記者の中では「カツンジ」。もちろん面と向かっては「永島さん」だが、プロレス以外のところで世話になった。最初は90年代前半、赤坂にあったコルドンブルーで大信田礼子のレビューを取材している時に後ろから声をかけられた。華やかなステージに、プロレスラーのような体格の永島さん。何をしているのか分からなかった。「ちょっと、いろいろあってね」と笑っていた。

後に95年の平壌での「平和の祭典」でのイベントのヒントを探すために訪れていたと教えてくれた。「なんかプロレスの試合の演出の参考になるものがないかとね」と振り返った。あでやかな大信田礼子のステージが、20万人近い観衆の前でのリック・フレアーvsアントニオ猪木の試合につながったかと思うと、プロレスファンとしては胸熱だった。

WJの後は夕刊紙の編集、そしてプロレス関係の評論などをしていた。また、その人脈をいかして芸能関係のプロモートに関わることも多かった。突然、電話がかかってきて、うら若きアイドルの取材、インタビューを頼まれることも多かった。「もう若い女の子のことなんか分かりませんよ」と文句を言うと「バカ野郎、お前が分からなくてどうする。俺が分かるわけないんだから」と豪快に笑った。

アイドルや女優のことは分からなかった永島さんだが、折りに触れて聞くアントニオ猪木との思い出話は楽しかった。猪木さんがハルク・ホーガンにノックアウト負けをくらった、83年の第1回IWGPにまつわる裏話にはしびれまくった。

そして、その人脈から、とんでもない大物を紹介されることもあった。2年前には俳優の小林旭(86)を長州力ではない専修大の後輩ルートで紹介された。顔合わせ程度だったのだが、日活の大スターだった小林が、東映に乗り込んで「仁義なき戦い」シリーズに出演した時の心境などを聞くことができた。

小林に会ったことを報告すると「そうか、よかったな。次も頼むよ」と笑った。アントニオ猪木さんとカラオケで歌ったことを報告した時も「よかったな」と同じようにニコニコしていた。

いつも新橋での飲みに誘われた。「いい店があるんだよ、午後4時くらいからやってるぞ」「さすがにそれは早すぎますよ」と言うのが、お決まりのパターンだった。

82歳。人生を全力で戦い、生き抜いて試合終了。今ごろは、猪木さんとグラスを傾けているのだろうか。献杯しながら、冥福を祈りたい。