【中村勝広さんを悼む】虎と松井秀喜の運命変えたドラフト…もし飛行機好きだったら

巨人担当にとって、通路が長く導線も多い東京ドームのバックヤードは、取材の好機です(新型コロナウイルが拡大する以前)。人の目が少ない試合中は特にチャンス。巨人担当だった当時の自分も、試合を見ずに通路を歩き回っていました。亡くなる前日、三塁側の通路で中村GMと何度もとすれ違っていただけに、にわかに信じ難かったことをよく覚えています。(2015年9月24日掲載。所属、年齢などは当時。文中敬称略)

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日刊スポーツ

中村さんの訃報は当然、1面で掲載された

中村さんの訃報は当然、1面で掲載された

阪神に衝撃が走った。編成責任者の中村勝広ゼネラルマネジャー(GM)が23日、都内のチーム宿舎で急性心不全のため急死した。66歳だった。大混戦で、チームが優勝争いしている中、突然の悲報に接した。和田豊監督(53)や選手には巨人戦(東京ドーム)の試合後に伝えられた。早大から71年ドラフト2位で入団。二塁手として活躍し、90年から監督も務めた。球界が悲しみに暮れた。

◆中村勝広(なかむら・かつひろ)1949年(昭24)6月6日、千葉県生まれ。成東高-早大。早大では主将。71年ドラフト2位で阪神入団。二塁手として活躍し、78年に二塁手の日本記録(当時)となる守備率9割9分5厘。球宴出場3度。82年限りで引退し、阪神の2軍監督、コーチを歴任。90年監督就任。95年7月に休養し、同年退団。03年オリックスのGM就任。近鉄との球団合併を経験し、06年に監督就任。07年に再度フロント入りし、シニア・アドバイザーを経て球団本部長就任。09年退団。12年9月に阪神の初代GMに就任。現役時代は177センチ、65キロ。右投げ右打ち。タレント小倉優子は遠戚。

マウンド上の江夏豊(左)へ歩み寄る(中央)。右は吉田義男監督=1975年

マウンド上の江夏豊(左)へ歩み寄る(中央)。右は吉田義男監督=1975年

救急隊員、警察官…突然死

東京ドームに向かう阪神ナインを乗せたバスが出発して、約1時間後だった。正午頃、都内の選手宿舎にサイレン音を鳴らしながら、救急車が到着した。救急隊員がせわしなくストレッチャーを搬入し、AED(自動体外式除細動器)も持っていた。約20分後には、現場検証に向かう警察官も入っていった。明らかな異変だった。

この日は南球団社長と午前11時半に宿舎ロビーで待ち合わせ、球場に向かう流れだった。予定時刻を過ぎても姿を見せず、電話も不通。同社長が宿舎スタッフを同行して様子を見に行くとベッドで布団をかぶり、あおむけになった状態で亡くなっていたという。球団は急性心不全と発表した。

南社長は沈痛の面持ちで「中に入ると、冷たくなって、息を引き取っていた。ベッドの上であおむけになって、お亡くなりになっていた。大ショックで、言葉も口から出てこない。30年近い付き合いですから」と話した。

試合後に報告

和田監督には巨人戦直後に伝わり、首脳陣や選手には宿舎に戻ってから南社長が状況を説明。全員で黙とうし、死を悼んだ。

中村氏は71年ドラフト2位で阪神に入団して、11年間プレー。阪神監督の92年は新庄・亀山の若手コンビを中心に優勝争いを演じた。

鳴尾浜で練習の合間に談笑する、左から掛布DC、中村GM、平田2軍監督、木戸GM補佐。気さくな紳士だった=2013年11月

鳴尾浜で練習の合間に談笑する、左から掛布DC、中村GM、平田2軍監督、木戸GM補佐。気さくな紳士だった=2013年11月

その後オリックスGM、監督などを歴任。豊富な経験を買われて12年9月、阪神史上初のGMに就いていた。

戦力補強の中心的役割を担い、今年も7月に渡米。8月には渡韓して来季の新戦力候補をチェックした。合間を縫って高校や大学・社会人野球を視察するなど、多忙だった。

前日22日は東京ドームで巨人戦を見守り、帰路の足取りもしっかりしていた。だが、血圧が高く、降圧剤を飲み、病院へ通う姿を見られたこともあった。

6月に続投決定

突然の悲報に、周囲も動揺を隠せない。遺体は高輪署に安置され、和田監督や平田ヘッドコーチらのほか、球団関係者が対面。和田監督が目頭を押さえるしぐさもみられた。南社長は、ナインにこう伝えたという。

「試合が残っている。非常に厳しいけど1戦1戦、全力でいいプレーをして、1つでも勝ってくれ。それが、いまできる我々のGMに対する供養になる」

今季も球場で無数の試合を見て、南社長に「今年は大チャンス。優勝を勝ち取ろう」と意気込んでいた。6月には球団取締役として契約を更新し、来季のGM続行も決まっていた。

10月のドラフト会議への影響は避けられない。巨人にサヨナラ負けした。優勝の可能性が消えていく現実以上に、つらく悲しい1日になった。

【悼む】残りは2枚…下(鉄道)をとる

「GM」というより私には「中村監督」としての思いが濃厚だ。

中でも92年。折しも今年と同様、阪神がヤクルト、巨人とでシーズン終盤まで、激しく優勝争いをした。暗黒時代の虎にあって唯一、熱狂を呼んだ年に担当記者だった。

その秋は事件続きだった。

9月11日、甲子園での野村ヤクルトとの6時間26分ゲーム。9回裏、八木の幻のサヨナラ弾があった。中村監督は、本塁打判定を翻した責任審判・平光さんと40分間近く言い合ってゲーム再開をした。

「辞める覚悟」を持ち出した平光さんに、結局は折れた監督だったが、いかにも中村さんらしいスマートさで勝負師に徹しきれなかった。

11月21日にはドラフト会議があった。

前日、安芸キャンプから陸路、電車を乗り継いで東京に向かった。飛行機嫌いだった。しかも、あろうことか新幹線は架線事故。静岡で3時間閉じこめられた。

担当記者との食堂車、ビール瓶を並べ続けて、ドラフト戦略を語った。朝、高知を出て東京に着いたのは深夜だった。

翌日、4球団競合の星稜・松井の1位指名。

くじは残り2枚となり、中村監督が上下重なる下の封筒を引いた。残った1枚が巨人長嶋監督に。結果は周知のことだが、上(飛行機)ではなく下(鉄道)をとる、というこだわりだった。

中村監督が飛行機好きだったら、タイガースの歴史は変わっていた。あの日、電車で移動したように、ゆっくりと生涯をまっとうしてほしかった。66歳、早すぎますよ監督…。合掌。【1992~93年阪神担当キャップ、編集局長・苗村善久】

オリックスの監督時代、楽天野村監督とメンバー表を交換=2006年9月

オリックスの監督時代、楽天野村監督とメンバー表を交換=2006年9月

【悼む】自らストーブ取材に断

05年オフの夜だった。当時オリックスGMの中村さんから電話があった。

中村さんの現役時代を担当した先輩記者の名前を挙げ「また現場に戻る。よろしくお願いしますと伝えてくれ」と告げられた。オリックスは仰木彬監督が亡くなった直後。後任を巡るストーブリーグに、1本の電話で決着をつけてくれた。

清原和博、中村紀洋らが入団し、話題をさらった06年。

だが大型補強で優勝を義務づけられ、前年まで指揮を執った名将と手腕を比較され、だれがかじを取っても難しかった。

開幕直後に主力が故障で離脱。現場が望む補強への球団トップの協力は得られず、チームは低迷する一方だった。

「このままでは現場だけが責任を負わされる。オーナーに直談判に行きましょう」

今は球団を去った人だが真剣に中村さんに進言した側近もいた。だが応じなかった。

「オレをオリックスに呼び、また現場に戻してくれた人だ。その人に背くわけにはいかないんだよ」。黙って1年限りでユニホームを脱いだ。

世話になった人には、愚直なまでに誠実だった。

ファンにも同じ。優勝を争った92年の阪神監督時代、中村さんは看護師に手紙をもらった。「入院患者が元気になったって書いてくれてた。頑張らんといかんな」。

だからこそ9月11日ヤクルト戦で八木裕のサヨナラ弾が柵越え二塁打に覆ったとき、監督・中村は37分間もの猛抗議を続けたのだ。「ファンが甲子園に戻ってきてくれたから」と述懐していた。

GMとして手がけたチームのゴールを見届けられなかった無念を思う。【1992~94年阪神・2006年オリックス担当、堀まどか】

八木幻弾に猛抗議=1992年9月12日付日刊スポーツ 

八木幻弾に猛抗議=1992年9月12日付日刊スポーツ