初出場の橋岡優輝(22=富士通)が8メートル10で6位となり、メダル獲得はならなかった。予選で8メートル17を跳んで、上位12人による決勝に進出した橋岡は、1回目はファウルとしたが、2回目に7メートル95、3回目に7メートル97を跳んで、84年ロサンゼルス五輪の臼井淳一以来37年ぶりに上位8人に残って入賞したが、メダルは逃した。

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橋岡の成長過程にはレジェンドの存在もあった。五輪金メダル9つのカール・ルイス氏(60=米国)だ。日大入学後、森長コーチがルイス氏と知り合いの縁で春は米国で合宿を行っていた。そこで指導を受けた。

特に教えられたのは、踏み切り時の動作、心構え。当時の橋岡は、ファウルや踏み切りの失敗を恐れる時があった。「もっと攻めていきなさい」。ちゅうちょし、“無難”な跳躍を披露すると「怖いのかい」と笑われた。「ひっくり返る勢いで、ドンって行くんだ。その分、しっかりと体を動かして着地するんだ」とも助言された。心のブレーキを取っ払い、出力を消さない感覚を植え付けられた。森長コーチは「踏み切り最後のスピードアップにもつながった」と回想する。

もともと橋岡は助走速度が課題だった。大学入学時、助走スピードは毎秒10メートルに満たず、トップ選手にしては遅かった。それが19年8月には毎秒10・67メートルを出し、記録も8メートル32をマーク。助走スピードは国内トップクラスになり、記録のアベレージも上がった。人類初の9メートルを夢見る22歳。あのルイス氏のように-。世界を驚かす存在へと駆け上がっていく。【上田悠太】