日本勢57年ぶりの決勝に進出した北口榛花(23=JAL)は55メートル42で12位だった。3日の予選は62メートル06の全体6位で突破。64年東京五輪7位の佐藤弘子、11位の片山美佐子以来の決勝進出だったが、夢のメダルには届かなかった。

日大1年時の16年5月に、当時日本歴代2位の61メートル38を出し注目されたが、1カ月後に右ひじ靱帯を損傷。長い暗闇に入った。指導者も退任し、支えも希望も見いだせない日々が続いた。不安で押しつぶされ、体重は5キロも減。大会に出るたび、涙を隠せない姿があった。

どん底を切り開いたのは自らの行動力だった。転機は18年11月。フィンランドで国際講習会に参加。やり投げ大国チェコでジュニア世代を教えるデービッド・セケラック氏と出会った。「コーチがいない」など現状を伝えた。不慣れな英語だったが、恥より現状を打破したい気持ちが勝った。

「それじゃ、東京は出られないかもよ」

そう言われると、会ったばかりのチェコ人コーチに必死で食らいついた。

「じゃあコーチしてくれませんか?」

その後も翻訳機を使い、メールでも交渉を続けた。熱意が通じ、翌年2月には約1カ月単身チェコへ。冷静に振り返れば唐突な依頼。本当に教えてもらえるか不安も抱え、海を渡った。

ただ、信じた人は真剣に向き合ってくれた。それから言語の壁を越える師弟関係が始まった。10種競技の練習、山登り、ローラースケート。不思議なメニューも行いながら、課題だった下半身の使い方が改善。助走速度も上がり飛躍した。

コロナ禍で海外渡航ができない時期も、チャットアプリで連絡を取り続けた。メニューを作ってもらい、動画を送れば、アドバイスが細かく返ってきた。チェコ語も勉強し、言葉の壁を少しでも取っ払った。時差で「次の日のメニューは寝ている時しか来なかった」と笑うが、そんなのは取るに足りない事。この日もスタンドにはセケラック氏がいた。不安に支配されていた自分はいない。自信を持って、投げられた。