ホーム 東京オリンピック2020 サッカー ニュース RSS 前園真聖マイアミの奇跡の源はJリーグ…25年目の今、若い世代の実力は? [2021年8月8日9時0分] アトランタ五輪を語る前園真聖、五輪サッカー代表に熱いエールを送った(撮影・柴田隆二) <前園真聖が語るアトランタ五輪“マイアミの奇跡”25年目の真実 その4> 東京オリンピック(五輪)から25年前の1996年(平8)。アトランタ五輪で日本がブラジルを1-0で撃破した五輪最大の番狂わせと呼ばれた“マイアミの奇跡”は、世界サッカー史にも大きな1ページを刻み込んだ。日本代表主将として、その立役者となったタレント前園真聖(47)が日刊スポーツに単独取材に応じ、25年目の真実を激白した。第4回は日本が銅メダルを獲得したメキシコ五輪以来、28年ぶりの本大会出場を決めたアジア最終予選での思いを振り返りつつ、東京五輪代表をはじめ現在の若き後輩の可能性を語る。【取材・構成=村上幸将】 ◇ ◇ ◇“マイアミの奇跡”がフィーチャーされがちなアトランタ五輪代表だが、そもそも本大会出場権を獲得したのは、釜本邦茂を擁し銅メダルを獲得した1968年(昭43)のメキシコ五輪以来28年ぶり。日本は当時、アジアを勝ち抜けない国だった。ただ、前園は自信を持っていた。支えとなっていたのがJリーグだった。93年の開幕後、元ブラジル代表MFジーコ、90年のワールドカップ・イタリア大会を制したドイツ代表MFリトバルスキーら世界の大物が相次いで加入。前園が所属した横浜フリューゲルスにも95年、前年のワールドカップ・米国大会を制したブラジル代表MFジーニョ、メンバー入りは逃したものの代表経験者のMFサンパイオ、FWエバイールが加入。練習と試合で世界を感じることが出来た。前園 アジアを突破することを期待されているのを、何となく感じていました。Jリーグが出来たことが、僕らにとって少なからず自信になっていました。いろいろな経験値のある外国人選手たちが各チームにいて、そういう選手達と一緒にやれている、自分たちもやれるんじゃないかと。もちろん、その間(28年間)突破できなかったですけれども、自分たちが扉を開くんだという…それは逆に言うと、あの年代だからこそ怖いもの知らずじゃないけれども失うものもないし、やることをやるというところで臨んでいた結果です。前園はJリーグ開幕前年の92年に、鹿児島実業高から横浜フリューゲルスに入団。翌93年5月15日にJリーグは開幕したが、A代表は同年10月28日のワールドカップ米国大会アジア最終予選・イラク戦で終了間際に追い付かれ、初出場を逃した。いわゆる“ドーハの悲劇”で、テレビで見ていた前園は、それを自身の教訓にし、Jリーグで外国人選手とプレーしている中で“マリーシア”と呼ばれる、ずる賢いプレーも身に着けていた。96年3月24日の準決勝サウジアラビア戦では自身、2ゴールを決めながら1点差に迫られた。迎えた後半38分、CKでキックに入った際、足を滑らせたフリをして、わざと転んで時間を稼ぎ、勝利。本大会出場権をつかみとった。前園 “ドーハの悲劇”は僕らも見ていました。あれはワールドカップで舞台は違うけれども、アジアを突破する厳しさは、すごく分かったんですよね。残り何秒かで点を取られて、夢が崩れ落ちるんだと教訓になった。それだけアジアを突破するのは難しいけれど、今度、世界の扉を開くのは僕らの番だと、ずっと思っていたので、その一心でチームでやっていましたね。(サウジ戦のマリーシアは)時間をうまく、使ったんですよ。メキシコ五輪以来、閉ざされていた世界への扉を開けて、アトランタ五輪で見えたものは何だったのだろうか?前園 僕らの頃は身近なものではなく、遠い存在のものを自分たちがバッとつかんで、金メダルのナイジェリアと銅メダルのブラジルと当たった時の衝撃が強かった。だからこそ、僕はピントが世界に行っちゃった、1年、待てないよと。今だと世界に出るのも、ワールドカップもオリンピックも出ていて、親善試合も強豪国と対戦して、世界は身近なものになったけど。 前園は代表入りを逃したが、A代表は98年のワールドカップ・フランス大会に初出場を果たし、その後、日本はワールドカップ、五輪ともに出場を続けている。東京五輪に出場している選手たちは、金メダル獲得が目標だと公然と口にするようになった。最強メンバーとも言われるが、アトランタ五輪代表も、後にワールドカップ・フランス大会にも出場したGK川口能活、MF伊東輝悦、中田英寿、服部年宏、前園の鹿児島実業高の後輩でもあるFW城彰二がらが名を連ねるなどタレントぞろいだった。中田は欧州主要リーグで一時代を築き、城と川口も欧州でのプレーを経験した。前園 当然、自分の時と、一概に比較は出来ないですよ。サッカーは変わっているし、僕らの頃には海外に行くこと自体が難しかった。当時、僕は「若い世代から、どんどん出ないと世界には通用しない」って言っていたのが、今はスタンダードになっていて、東京五輪代表の半分以上が世界に行っています。もしかしたら、今に例えると、海外に行ける選手は96年のメンバーにも、たくさんいたとは思うんだけれども。7月25日の東京五輪1次リーグで、日本はメキシコに2-1で勝った。相手のGKはワールドカップに4大会連続出場を果たし、オーバーエージで選出されたギジェルモ・オチョアだったが、全く臆することはなかった。前園はメキシコ五輪がなかったら、今の日本サッカーはなかったと常々、語える一方で、東京五輪代表がメキシコ五輪の偉業を超える可能性があると常々、語ってきた。どこに可能性を見い出していたのか。前園 世界に出て経験している選手は、メンタリティー含め、それが日常なので、オリンピックだからって、何も変えることはないし…それで臨めるというのが1番、大きいんだと思います。(メキシコ五輪超えの可能性は)僕はあると思っていました。逆に言うと、これだけそろっているメンバーはなかったし、自国開催ということで、オーバーエージを、これだけそろえた大会もこれまでなかった。単純に見て、ワールドカップは別としても、24歳以下で日本の代表チームが、どこかのチームと対戦して、圧倒されるというイメージは全く湧かないので、十分狙えると、ずっと言ってきました。ただ、日本は8月3日の準決勝では、東京五輪開幕前の7月17日の親善試合で1-1と引き分けたスペインと対戦し、延長後半10分のFWマルコ・アセンシオのゴールで0-1で敗れ、公言していた金メダル獲得はならなかった。何が足りなかったのか? 前園 もちろん、ワールドカップにおいても、06年のドイツ大会、14年のブラジル大会でもそうですけど、このメンバーが最強という、みんな一番いい時だったけど足元をすくわれた。可能性は十分あったし、期待に応えるだけに十分なプレーと結果を出しているので期待していました。スペイン戦では、疲れも出始めて足が止まる時間帯で、最後のアセンシオ選手のワンチャンスで決めきれるスペインの技術はさすが。日本もその時間帯でチャンスがあり、その局面を打開できる選手としては、MF久保建英選手と堂安律選手だったと思います。個人的にはその2人の交代は、もう少し引っ張っても良かった気がします。守備に関しては、GK谷晃生選手を中心に集中できていましたしワンチャンスが悔やまれます。“マイアミの奇跡”から25年…東京五輪を見つめる、前園の視線は熱い。引退後の09年にはビーチサッカー日本代表として、舞台は違えど悲願のワールドカップに出場した。タレントとしてお茶の間の人気も高まっているが、サッカーの情熱も、熱くたぎったままだ。◆前園真聖(まえぞの・まさきよ)1973年(昭48)10月29日、鹿児島県生まれ。鹿児島実を経て92年に横浜フリューゲルス入団。アトランタ五輪翌年の97年にV川崎(現東京V)に移籍も低迷。ブラジルのサントス、ゴイアスへの期限付き移籍を経て欧州で移籍を模索も、00年のJ2湘南を経て01年に東京Vに復帰。02年に退団し、Kリーグに挑戦も05年に引退。09年にビーチサッカーW杯に出場。解説者として活動も、13年10月に泥酔してタクシー運転手に暴行、逮捕。示談が成立後、断酒を宣言しタレントとして再起。J1通算191試合出場34得点。日本代表として国際Aマッチ19試合出場4得点。 前のページ 1 2 3 次のページ