歌手吉川晃司(49)は、将来を嘱望された水球選手だった―。高校を中退して音楽業界に足を踏み入れる前、「水上の格闘技」と呼ばれる水球に打ち込み、高校最優秀選手にも輝いた。今でも愛する競技の思い出や魅力、そして20年東京五輪・パラリンピック開催への期待と不安がある。元アスリートとして、ミュージシャンとして、熱く語った。【取材・構成=阿部健吾】

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30年以上前の記憶が、ボールを触る手からよみがえっていくようだった。撮影のために用意した、水球の公式球。「ちょっと小さくない?」と久々の感覚に手を委ねながら、思い起こしたのは広島のプール、中学の入学直後だった。

「もともとサッカーをやっていたけど、暑い日、プールがきらきら輝いて見えてね。誰もいなかったんだよ。男子校だから、海パンなんて落っこってて、そのままはいて水に漬かってたわけよ。そうしたら中高6年制だったから、高校生の主将がちょうど来ちゃって。『お前、何しとんじゃ!』『今日から水泳部!』と」

出会いは突然、強制的に。競泳と一緒の水泳部。プールに浮かぶボールを手にして「面白いな」と思うまで時間はかからなかった。日に14時間、水の中にいることもあった。

「格闘技ですよ。激しさ、バトルというか。ボールを持った選手を沈めていいんですから。陸上ほどぱっと走って敵選手と距離をつくれないから、相手を蹴るしかないんだけど審判に見られると反則なんで、いかに泳いでいるふりをして、蹴るか殴るか。子供がぐれそうだったら、(水球を)やらせるといい。もうね、けんかとかしたくなくなるもん」

心が燃え、夢中になっていった。抜群の運動神経に、逆三角形の恵まれた体格。国体メンバーにも選ばれ、みるみる全国に名をはせていった。肺活量は7000ccもあった。

「競泳は横に大きくなるけど、胸板がつかない。水球はね両方つくんだよね。ギリシャ彫刻みたいな体になってくる。浮きながら本を読んだり、弁当食ったりする練習もやったよ」

 

U-20日本代表の最年少選手として抜てきされ、海外遠征に出たのは高2の時。そこで、もっと筋骨隆々の「ギリシャ彫刻」たちに面食らった。海外には、(水球と並行して)五輪の競泳自由形で金メダルを取る猛者までいた。ハンガリーなど国技の国もあった。

「外国には100キロの選手がざら。(元プロレスラーで親友の)前田日明さんを背負って水の上で受けるみたいな感じですよ。前田7人はやめてと。想像を超えてますよね」

体格差があっても挑む勇者たち。だからこそ、五輪で戦う選手を敬愛してやまない。

「五輪に出られたかも? そんな厚かましい夢はみませんよ。無理だと思ってやめたんです。語弊があるかもしれないけど、音楽と五輪のすごい人なら、五輪のほうがすごいと思ってしまうところはあるよね。そのためにどれだけのことを犠牲にし、どれだけのことに耐え、どれだけのことを越えてきたんだろう。そう思うんです」

あれから30年あまり、超高校級水球選手は49歳になった。いまもプールで泳ぐことはあるが、水球をする機会はなくなった。当時の中、高の仲間同士で「やりたいね」と話しながら、時には試合会場に足を運びながら、当時を思い出す。そして、20年東京五輪開催が決まった。喜びとともに、さまざまな思いがある。

「元アスリートのはしくれという角度では万歳でしたけど、日本の未来を憂い、危惧する問題点は山ほどある。1人の日本のオッサンとしてはね、小さな子供を持つオヤジとしてもね、考えさせられるな、と」

頭には東日本大震災からの復興のことが浮かぶ。発生直後にボランティア活動を続け、東京ドームで布袋寅泰とのユニット「COMPLEX」の復活ライブも開催。収益金約6億5430万円を寄付した。東北のことが頭を離れない。ましてや、13年9月、東京開催が決まった国際オリンピック委員会(IOC)総会で、安倍首相は「(福島第1原発の)汚染水はコントロール下にある」と発言した。

「いま、五輪の建設のほうが羽振りがいいから、(被災地から)人が流れるというのを聞く。切実な声です。五輪は素晴らしいと思うけど、こっちのことを忘れないでほしいとおっしゃってましたよ。東北の人は人が優しいからね、余計に心にきますね」

「なんで不利だった日本が選ばれたのか。うがった目で見ると、先進国の既得権益層にいる人々たちには、原発がなくなったら困る人がいる。あれだけ事故があっても、東京で五輪ができるのは最大のPRになる。だから選ばれたんじゃないかとも思ってしまう」

元アスリートの「オッサン」は、純粋なスポーツの美しさに魅了されてきた。「一瞬にかけている人たちの美しさ。ゴールテープを切った瞬間の美しさ。誰も勝てないね。自分でその領域にいってみたいと、いまでも思いますよ。だから、近年では五輪を見ながら曲を作ったりしてます」。

だからこそ、「汚れ」が気になる。

「人間社会だから少なからず清濁併せのむことになる、選手もね。だけど、可能な限りスポーツは純粋なもので、汚してほしくない。政治も商業主義もね」

 

もちろん、五輪が日本に来ることに「こんなに素晴らしいことはない」と興奮は隠さない。一瞬の美しさを求め、直に見たい。

「すべて見たいですよ。だから、ずるいこと考えます。何かに関わったらフリーパスとかないのか、とか。あ、でもそれって政治的な話か。それも、ちっちゃいな(笑い)。政治のことも話したのに、どうもすいませんって感じです」

明るく、ちょっと自分をちゃかした吉川は、昨年デビュー30周年。音楽の道で一流のプレーヤーになった今も、選手たちに尊敬の念は忘れない。

最新シングル「Dream On」はこう締めくくられる。

「Dream On 道は 折れない真心に 導かれ 切り開かれ ゆけるもの Dream Goes On 信じろ 瞳に宿る光 その流行らない 愚直さが 美しい」

それは、アスリートへの賛歌に聞こえる。

 

■吉川晃司(きっかわ・こうじ)1965年(昭40)8月18日、広島県生まれ。中学から始めた水球で高校時代に世界ジュニア選手権大会代表、81、82年に全日本高校最優秀選手に。同時にロックバンドを結成、スカウトされて芸能界入りを決意。84年デビュー曲「モニカ」が大ヒット。その後もヒット曲多数。88年から90年まで布袋寅泰と「COMPLEX」としても活動。91年からソロ活動再開。俳優としても活躍。16年正月公開の「さらば あぶない刑事」にも出演予定。

 

○…当時日本代表のコーチだった原水球委員長は、吉川のプレーを懐かしんだ。「いい選手だった。高校生の時に日本代表としてエジプト遠征にも参加しているし、将来も期待していた」と話した。74年から94年までギネス記録「376連勝」を持つ日体大コーチとして修道高時代の吉川を同大に勧誘したが「(水球で)慶大に行くか渡辺プロダクションに行くか迷っているといわれ、あきらめました」と話していた。

 

◆五輪と水球 歴史は古く、1900年第2回パリ大会から実施。団体球技としては、サッカーとともに最初に五輪に登場した。日本は初参加の32年大会で3戦全敗ながら4位。参加5カ国で、ブラジルが失格となっての順位だった。60年大会から連続出場したが、76年大会以降は低迷。84年大会は共産国のボイコットで繰り上げ出場も、その後は予選敗退が続く。近年は復調の兆しを見せていたものの、12年ロンドン大会アジア予選も敗退。00年大会から採用された女子も出場していない。