サッカーの元ブラジル代表で母国をFIFAワールドカップ(W杯)で3度の優勝に導いた「王様」ペレさんが29日、サンパウロ市内の病院で死去した。82歳だった。

日本サッカー界の王様、キングカズこと三浦知良が30日、所属する鈴鹿ポイントゲッターズの公式サイト上で、ペレさんへの思いをつづった。カズの故人へメッセージ。全文は次の通り。

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ペレが亡くなられたという知らせに接し、悲しみとともにいまはさまざまな思いが去来しています。

ペレというサッカー選手は、誰もが憧れ、なりたいと思ったプレーヤーであり、しかし、決してなれるような存在でもなく、本当に唯一無二の特別な存在でした。ペレがいたからサッカーがある、サッカーをつくった世界一の男だということは、幼い頃からずっと思っていました。ワールドカップやサッカーはもちろん、スポーツそのものの象徴といってもいいその存在は、あまりにも偉大でした。

サントスでのプレーは同時代ではなかったけれど、そののちに幾度なく映像で見ていましたし、ニューヨークコスモスに移籍してからのプレーは、ほぼ同時代で見た記憶があります。国立競技場で行われた試合も見に行くことは叶いませんでしたが、テレビで見てましたし、いまのように映像が自由に見られない時代でも、必死にその姿を追い、ペレの凄さを目に焼き付けていました。

そんな僕がペレと初めて会って言葉を交わしたのは、1985年の暮れ、18歳のときでした。当時、僕はサントスのジュニオールに所属していて、タッササンパウロのジュニアの大会に出場することになっていました。そのプロチームのロッカールームにペレが姿を現したのです。ユースのコーチがペレに「彼は日本から来ているカズで、頑張っている」と紹介してくれました。40代のペレは、何かの撮影のために来ていて、撮影が終わりシャワーを浴びた直後で、なぜかまっぱだかだったんですが、サントスのユニフォームを着ているときに、サントスの黄金時代を築いたキング・ペレに励まされたのがものすごく嬉しかった。サントスの後輩として誇りを感じた瞬間でした。

次にペレに会ったのは、イングランドで行われた1995年のアンブロ・カップのときでした。日本対スウェーデンのゲーム前に日本のロッカールームに「マイサン(俺の息子)はいるか」とやってきてくれたのです。当時の日本代表のフィジカルコーチのフラビオが「マイサンって誰だ」と訊いたら、「カズだ」と答えながら入ってきて、ハグしてくれました。僕のサントス時代の活躍も知っててくれて、少し言葉を交わしました。

2012年のクラブW杯で来日したときには、「Number」の企画で対談し、一緒に表紙を飾るという栄誉を授かりました。初めてじっくりとサッカーのことを語り合うことができて、本当に光栄でした。謙虚で、温かみにあふれる人柄に触れられたのが嬉しかった。「我々のサントス」という言い方で、僕のことを尊重してくれたことも忘れられません。

今回の悲報はどこかで覚悟していたところもあったのですが、ニュースが飛び込んできたときには、やはりなんとも表現できないぐらいの悲しみに襲われました。ペレがいるからサッカーをやっている、ペレがサントスにいたから自分も努力しようとやってきたところがあったので、その喪失感は半端なかったのです。サッカーによって人々を幸せにし、人々の気持ちを豊かにしてきたペレ。ペレが築いてきたサッカーの礎を僕も微力ながら引き継ぎ、ペレにはとても及ばないけれど、サッカーの繁栄にこれからも貢献していきたい、といまは思っています。

エドソン・アランテス・ド・ナシメント氏のご冥福を心よりお祈りするとともに、心を込めて感謝の意を表します。Obrigado!