「走ってる時って何、考えているの?」。

 13年1月、大阪市内のホテルで行われた関西スポーツ賞表彰式。当時17歳になったばかりの桐生祥秀に初めて会った。自己記録10秒19の高校2年生がいると配布資料に書いてあった。記者は当時、6年間の野球担当を終えて、五輪担当になったばかり。正直「桐生祥秀」の名前は知らなかった。ただウサイン・ボルトを超える、ユース(17歳以下)世界最高記録(当時)を持っている、という文字が気になった。

 陸上男子100メートルについて深い知識はなかった。ある漫画で、自分の限界を超えるようなスピードが出ると、目の前がきらきら輝く、というようなシーンがあったことを思い出した。だから「もしかして走っていると、空気がきらきら光ったりする?」と聞いた。いま思えば、かなりピントが外れている。でも17歳の少年は「いや光ったりしませんよ。走っている最中は特に何も考えてないです」と笑いながら答えた。

 表彰式には、甲子園で史上7校目の春夏連覇した大阪桐蔭野球部や12年限りで現役引退したプロ野球阪神の金本知憲氏(現監督)も表彰されていた。桐生が「金本さんと写真が撮りたいです」と言うので、一緒に行った。「自己記録は17歳時のボルトより速いですよ」と紹介すると、金本氏も「え、ボルトよりも速いの?」と驚いていた。2ショット写真を撮った後で「何か聞きたいことある?」と金本氏に聞かれると、桐生は堂々と質問した。

 桐生 レースで緊張して、スタートがうまくいかないことがあるんです。緊張しないコツはありますか?

 金本氏 大事な時は緊張するもの。おれだって、9回裏2死満塁は緊張した。慣れよ、慣れ。

 桐生は小学校時代にサッカー少年で、野球では特定の球団を応援はしていなかった。ただ野球で成功した大打者に、緊張しないコツを聞いてみたかったという。何よりも初対面の「鉄人」に口ごもることなく質問する17歳に驚いたものだ。

 日本記録の9秒98を出した桐生だが、その道のりは決して平らではなかった。喜びがあり、挫折があった。桐生の口癖は「これも経験です。経験」。それを聞くたびに「慣れよ、慣れ」という金本氏の言葉を思い出す。【益田一弘】

 ◆益田一弘(ますだ・かずひろ)広島市出身、00年入社の41歳。大学時代はボクシング部。陸上担当として初めて見た男子100メートルが13年4月、織田記念国際の10秒01。昨年リオ五輪は男子400メートルリレー銀メダルなどを取材。