箱根駅伝の「山登り」の5区(小田原~箱根)は、選手を時に英雄に祭り上げ、時に地獄に突き落とす。標高差864メートルのコースは06年から23・4キロまで距離が延長され、さらに険しさを増した。特殊区間と言われながらも、最近は「花の2区」以上に今井正人、柏原竜二らスター選手を輩出している。その魅力を往年の山登りスペシャリスト、金哲彦氏(46=早大OB、ニッポンランナーズ代表)と奈良修氏(39=大東大OB、現大東大監督)が語った。

 標高864メートルを駆け抜ける5区の山登りは過酷なコースだが、美しさを感じる瞬間もある。早大で4年連続5区を走り、2度の区間賞で2度の総合優勝に貢献した金(当時木下)は風景美に魅了された。

 金

 中間地点の温泉街を抜けるところは歌舞伎の花道のよう。両側に人がビッシリいて、応援してくれる。圧巻だった。あと箱根湯本で湯治をしていた早実高OBの王貞治さんが応援してくれたのも思い出深い。

 だが5区は華美なだけではない。天候、体調、そして精神状態によってその景色は変わる。3年時に5人抜きで金の区間記録を更新した大東大の奈良は、4年時に区間12位で涙した。

 奈良

 区間新出したら4年目は2区と思っていた。監督に直訴したけど、チーム事情もあり、また5区。5区なら大丈夫という油断があり、体調管理できずに39度の熱が出た。心の中でおろそかになる部分があると失敗することを箱根で知った。

 今の5区はエース区間の2区と並ぶ華やかな印象がある。だがラジオ中継しかなかった金の時代、テレビ中継開始から3年しかたっていない奈良の時代は花形区間ではなかった。

 金

 そこそこの力のある選手の間では、できるだけ楽で失敗の少ない3、7、9、10区を望んでいた。きつい5区はみんなやりたがらなかった。

 奈良

 朝早起きが苦手だった。だとすると一番遅いのは5区しかない(笑い)。アンカーは5、6時に起きればいいから。

 2人は山登りの才能、適性を見いだされ、抜てきされた。金は名伯楽の中村清監督から粘り強さと分厚い体格、筋力を買われた。奈良はフォームは美しくなかったが、負けん気の強さがあった。大会前にエースの実井謙二郎に群がる報道陣を見て「箱根が終わった時にはオレのところに来させる」と闘志を燃やした。

 当時は視覚的な情報も少なかった。攻略法は走りながら、手探りで感覚をつかんでいった。

 金

 1年の秋に試走した時は、すごい登りで最高点を過ぎた後、下りがあるとも知らなかった。ここで走り方を下り用に切り替えられるかが大きな要素。下るまでに(当時のコースで)15キロも登りを走っているから相当疲れている。でも切り替えないとブレーキがかかる。最後、太ももに負担がかかってラスト2、3キロで1、2分は簡単に落ちてしまう。3年でようやく考えてやれるようになった。

 3年連続で実績を積み、金も奈良も2区変更を直訴した。だが仲間のことを思えば5区を走ることが使命だった。

 金

 2区を走りたかった。でもチームのために苦しみに耐えようと思った。往路のアンカーは1秒でも復路に貯金しないといけない。普通は断トツだったら沿道に手を振るけど、僕は芦ノ湖のゴールに向かう緩やかな坂も最後までダッシュした。

 往路でタスキの重みが一番増す区間。だからこそ、思うように走れなかった時、選手に与えるダメージも大きい。06年に2・5キロ増の距離延長。それから5大会連続5区での逆転で往路優勝が決した。大差を逆転することも多い。

 奈良

 最後を締める役割だから、抜かれるとガクッとくる。ここまで貯金してもらったのにという思いがある。(東洋大の柏原にも)みんな心理的に負けたくないから飛ばしすぎて失速する部分もあると思う。自分のペースを守れば、負けても最小限で済む選手もいたかもしれない。

 重圧を乗り越え、金には「山登りの木下」、奈良には「山登りのスペシャリスト」の異名がついた。だが当時から英雄視されることに満足しなかった。

 金

 次はマラソンと思っていた。そこで終わる選手にはなりたくなかった。

 奈良

 僕が走れなかったからというのもあるけど、世界を狙う人は2区を走ってほしい。

 88年ソウル五輪代表の新宅以来、5区出身の五輪マラソン代表は生まれていない。山登りから世界へ羽ばたいてほしい-。それでこそ輝きが増す区間になると2人は信じている。【取材・構成

 広重竜太郎】