今季限りで現役を引退した巨人山口鉄也投手(35)は、育成選手制度の1期生で夢をつかんだ。06年(平18)からのプロ13年間で642試合に登板。9年連続60試合登板のプロ野球記録を樹立した。「育成」は強化のキーワードとなり、今年の日本シリーズでMVPを獲得したソフトバンク甲斐も育成出身で注目された。平成後期に先駆者となった左腕の歩みを振り返る。

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05年(平17)12月9日、山口は巨人の新入団発表会見に臨んだ。帝国ホテルの金びょうぶ。真ん中には甲子園のスター、辻内崇伸がいた。カメラのフラッシュが集中する中、端っこでポーズを決めた。「まさか巨人に入れるなんて思ってなかったので。その場に立てることが夢のようだった」。支度金100万円、年俸240万円。背番号「102」も気にならなかった。

年が明け、恒例の新人合同自主トレが始まった。大学・社会人ドラフト希望枠の福田聡志は音を立てるような速球を投げ、同3巡目の栂野雅史はキチッとコーナーに制球していた。「僕は力任せに投げるだけ。新人でこのレベル…すごい世界に来たなと思った」。3ケタの背番号はチーム内に3人しかいなかった。日を重ねるうちに「恥ずかしい、悔しい」の気持ちが芽生えていった。

ジャイアンツ球場で鍛錬を積む日々。ある日、2軍投手コーチの小谷正勝に言われた。「まずは左打者が嫌がる投手を目指しなさい。1軍に行くには、左のワンポイントだ。どうすればいいかは自分で考えろよ」。幾多の好投手を育てた名伯楽は、入団テストで山口の合格を強く勧めていた。投手の資質と粘り強い性格、秘める闘志を見抜き、最初に答えを与えるのではなく、試行錯誤を求めた。

もう1つ「誰よりも練習しなさい」とも言われた。山口は忠実に従った。左キラーを目指し、左打者の背中を通すボールの軌道をイメージした。ほぼ真上だった肘の位置をミリ単位で微調整していくと「肘の高さが、どんどん下がっていった」。スライダーとチェンジアップも使えるスリークオーターに落ち着いた。シュートも覚え、プレート板を踏む位置も真ん中から一塁側に変わっていた。

すっかり日が落ちても1人球場に残り、ウエート室で体を鍛えた。小谷は黙ってその様子を見ていた。山口が汗だくでウエート室から出てくるのを確認し、帰宅していた。1年目は2軍で25試合に登板。防御率1・61の成績を残した。

オフになると携帯電話が鳴った。当時の球団代表、清武英利からだった。「今年のオフの支配下登録は見送るが、来年チャンスがあるから」と言われた。思わず強い口調で「どうしたら上がれるんですか」と聞いた。「1軍の戦力になると判断したらだ」。受け答えを注意された。

小谷の教えを信じ、一心不乱に腕を振り続けた1年目。組織というものを全く理解していなかった。「球団では、監督が一番えらいんだと思っていた。今考えれば恥ずかしいですが、球団代表って何だろうと…。本当に、よく分かってなかったんです」と笑った。

2年目のシーズンが開幕した。イースタン・リーグ5試合(8回1/3)を自責0と好投し、念願の支配下登録を勝ち取った。背番号は99。松本哲也に続き、巨人史上2人目の昇格だった。(敬称略=つづく)

【宮下敬至、久保賢吾】

07年5月、阪神戦で初勝利を挙げ二岡(左)に祝福される背番号99の山口
07年5月、阪神戦で初勝利を挙げ二岡(左)に祝福される背番号99の山口