日本を代表するビッグバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」のリーダーとして、国内ジャズの礎を築いたテナーサックス奏者の原信夫(はら・のぶお、本名塚原信夫)さんが肺炎のため21日に亡くなった。94歳だった。

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原信夫さんが作曲した美空ひばりさんの「真赤な太陽」(作詞・吉岡治、編曲・井上忠夫)は、グループ・サウンズ(GS)全盛期の、1967年(昭42)5月23日に発売された。

すでに歌謡界の女王だったひばりさんは間もなく30歳で、芸能生活20周年を迎えていた。「柔」が65年の日本レコード大賞を獲得し、翌66年には古賀メロディーの傑作「悲しい酒」をリバイバルヒットさせていた。東京五輪年に発売された「柔」では時に柔道着を着て力強く、「悲しい酒」では着物姿で絶唱した。「真赤な太陽」は、そうした流れの中で発売された。

誰もが驚いた。ひばりさんが真っ赤なミニスカートで踊りながら歌ったのだ。しかも、バックバンドは編曲を担当した井上が所属したジャッキー吉川とブルー・コメッツ。同じ67年3月15日に、同年末に日本レコード大賞を獲得する「ブルー・シャトウ」を発表し、大ヒットさせている最中だった。

当時、ひばりさんは日本コロムビアの邦楽。ブルー・コメッツは洋楽の部署に所属していた。当時、邦楽と洋楽の壁は厚く、共演など難しい時代だった。原さんは親しくしていた井上に編曲を依頼。そして上層部と直談判して、女王とGSという異色の共演を実現させたのだ。原さんがひばりさんの新境地として作曲し、時代の流れを敏感に察知していたひばりさんが意欲的に挑戦した、昭和を代表する1曲となった。140万枚といわれる売り上げは、「川の流れのように」「柔」「悲しい酒」に次ぎ、ひばりさんの歴代4位となっている。【笹森文彦】