萩野公介はなぜ「死」を意識するに至ったのか 壮絶な日々を自ら解き明かす
死を意識したほどの苦悩の理由を解き明かしたい。16年リオデジャネイロオリンピック(五輪)競泳男子400メートル個人メドレー金メダルの萩野公介(27)は、4月から日体大大学院で「スポーツ人類学」を学んでいる。なぜ引退後に研究者を志したのか? 背景には現役時代の壮絶な日々があった。(敬称略)
ストーリーズ
益田一弘
4月から大学院週4回通い
「バスケットボール、やってみたいんですよね」。
22年6月、都内のビルの一室。
陽光が照らす窓際に腰をかけた萩野公介(27)は、明るい声で言った。
「ゲーム性のあるスポーツがやってみたい。右肘(の古傷)があるから、テニスとかラケット系は難しいかな。ハーフマラソンもいいな。トレーニングの成果を発揮する場がほしい」。
現役時代よりも体重が2キロ増えた78キロ。週4日程度、通うジムのトレーナーから「ちょっと来すぎじゃない?」と苦笑いされる。
現在はもっぱら陸の上でのトレーニング。プールで泳ぐことはほとんどない。
萩野は、21年東京五輪を最後に現役を引退した。4月から大学院に週4回、通う日々を送っている。
◆萩野公介(はぎの・こうすけ)1994年(平6)8月15日、栃木県生まれ。作新学院高-東洋大-ブリヂストン。五輪は12年ロンドンで銅、16年リオで金銀銅、21年東京は200メートル個人メドレー6位。同種目で200メートルの1分55秒07、400メートルで4分6秒05は日本記録。昨年10月に引退し、今年4月から日体大大学院に進学。「チームブリヂストン・アスリート・アンバサダー」も務めている。
「人はなぜスポーツをするのか。純粋に、自分の疑問として知りたい」
現在は、研究の土台を作っている最中だ。ゼミに出席して、授業を受け、論文の書き方を学ぶ。ゼミ仲間の発表を聞いたり、参考文献を読んだりして過ごす。
「学ぶことが多すぎて。研究者には2通りあると思うんです。純粋に疑問を持って大学院で勉強する人。誰かの役に立ちたいと思って研究する人。例えば、お年寄りに元気になってもらいたいとか。研究するという行為自体は同じですが、僕は前者ですね」
スポーツの成り立ち。歴史学的にみれば、部族単位で祭りが行われ、複数の部族が祭りを一緒に行う際、ルールを決めたという。一方で哲学や文化の観点からみれば、意味が異なってくる。根本からひもといて、多角的に見る。そんな学問の世界に没頭している。
なぜ萩野は引退後の道として研究者を選んだのか?
現役時代に深く悩み、苦しんだ経験が背景にある。
スイマーとしての萩野は、16年リオ五輪の前後で大きく様相が異なる。
12年ロンドン五輪は高3で銅メダル。13年の日本選手権は史上初の5冠。15年に右肘を骨折したが、16年リオ五輪で金、銀、銅を獲得。マルチスイマーとして頂点に立った。
「当時、水泳に対する悩みは深くなかった」
闘争心、理想…いくつかの理由
だがその後は一変した。
17年は世界選手権でメダルなし、18年は肝臓を痛めて入院した。そして19年3月にモチベーションの低下による休養。泥沼をもがくように1歩1歩進んだ。
引退から時間がたち、やっと明かせる心境があった。
「死にたい、と思うこともあった」。
理由はいくつかあった。
<1>闘争心
五輪2大会連続2冠の北島康介は、04年アテネ五輪決勝を前に「言葉は悪いが、殺すつもりでいった」とライバルをにらみつけた。金メダルをとるほどならば、当然備えていると見なされる、激しい闘争心。だが萩野の気質は競争にそぐわない内向的なものだった。
「僕は先天的にベクトルが他人に向かず、自分に向くタイプ。競技は『あいつを蹴落としてでも自分が前にいく』という性格のほうが結果を出しやすい。でもそうじゃなかった。何か起こった時に、相手がこうだったから、ではなく、僕が何か悪いことをしたかなと考える。内側にベクトルが向くタイプだった」。
<2>理想の追求
萩野にとって、ライバルに勝つことよりも大切だったのは、理想とする泳ぎを体現することだった。
「いいストロークをしたい、いい体の使い方をしたい」。
だが右肘骨折の影響により、理想のストロークはなかなか実現しなかった。
「毎日の練習、1回1回の練習ごとに、削られていく感覚だった。少しずつ、少しずつ、自分が自分に対する期待、そして僕が認識していた、周囲の(金メダリストである)自分に対する期待。それが現実とずれていった。結果的に僕が考えていた周囲の期待というのは、ある意味、誤認だったと思うのですが」。
萩野は、19年3月に3カ月間、休養した。2月のコナミ・オープンで自己ベストから17秒以上遅いタイムしかでなかった。当時、休養のきっかけとされたが、こう振り返る。
「日々の積み重ねによって、実際に出る結果と理想の不一致が大きくなっていった。だからコナミ・オープンが(休養の)きっかけではなく、そうなることがある意味で必然だった」。
競技者としてマイナスだとわかっていても、心が休みを必要としていた。
五輪直前合宿、部屋から出られず
コロナ禍で延期された昨夏の東京五輪。金メダルをとった400メートル個人メドレーを回避して、200メートルに絞った。
それは五輪連覇の断念を意味していた。
コーチの平井伯昌が「本当に4コメ(400メートル個人メドレー)に出ないのか?」と聞いても、自分自身で決断した。
「みえを張るのは疲れました。今思えば、世間体、こうでないといけない、という水泳と関係ないことを考えていた」
当時、吹っ切れた表情で言った。
しかし実際には違った。
「2コメ(200メートル個人メドレー)に絞るとなっても、結局、僕自身の軸がぶれた時期もありました」
東京五輪を1カ月後に控えた同6月、長野・東御(とうみ)合宿。仕上げのタイミングで事件が起きた。
これまで苦しんできた「レースにいく不安」が、またしてもぶり返した。
「部屋から1週間ぐらい出られなかった。全く泳がず、でした。食事もとらなかった、と思います。ほとんど取ってない。部屋からも出ず。確か翔馬(平泳ぎ佐藤翔馬)と同じ部屋で。いやどうだったかな…」。
流れるように言葉をつむぐ萩野にしては、珍しく当時の記憶はあいまいだ。
見るに見かねた平井伯昌から家族に連絡がいった。
萩野は、合宿地を訪れた家族と時間を過ごした。
「(周囲が)牛の放牧地みたいなところなので。自然と牧場を歩いた」。
ぎりぎりだった心をつなぎとめて、最後の東京五輪に臨んでいた。
現役を退いた今、分かること
浮き沈みが交錯したリオ五輪後を振り返って、いま思い出す言葉がある。
北島康介から「お前は金メダルをとったから、そんなにしなくていい。何をそんなに思うことがあるんだ。自分の人生を歩めばいい」とさとされた。
「言われた時は『いや、でも』と思っていた。現役時代は水泳が人生のほぼ100%を占めている。その時に多角的にスポーツを見るのは相当難しい」
現役を退いた今ならわかる。そして大橋悠依や松元克央ら後輩スイマーにもそれを感じてほしいと願う。
「人生のほぼ100%が競技と感じるかもしれないけど、決してそうじゃない」
アスリートのメンタルヘルス。
東京五輪をきっかけに、大きく注目されるようになった。
萩野は、その言葉がまだ一般的でなかった時期から苦しんできた。
「僕は、人は幸せになるために生まれてきたと思っている。いい結果を強く求め過ぎるがゆえに、不幸せになるなら、いい結果を求めなくていい。簡単にいえば、僕はそういう考えです」。
メダルを取ることはスポーツの一面ではあるが、すべてではない。
スポーツの多角的な価値について学びたい。
「今はただ知りたい。そしてもし研究をすることで、最終的に誰かのためになりうるのであれば、万々歳だなと思う」。
死を意識するほど悩み、苦しんだ日々の意味を解き明かしていく。
そして将来、もし自分が歩んだ道が誰かの役に立つのなら、これほどうれしいことはない。