東京五輪から正式種目となるスケートボード・ストリート男子の堀米雄斗(22=XFLAG)を紹介する。今月上旬に行われた五輪予選最後の大会に当たる世界選手権は、ライバルを抑えて初優勝。米国を拠点に活動し、東京に“来る”金メダル候補のすごさを周囲の声から探った。【取材・構成=平山連】

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日本人が、スケートボードの本場・米国で通用するのか? 英語が話せない10代が渡米する際、懐疑的な声は少なくなかった。堀米は、そんな疑念を実力で振り払ってきた。世界最高峰のプロツアー、ストリートリーグ(SLS)で日本人初の頂点に輝くなど、22歳の実力者は今も成長を続けている。

父亮太さんの影響で6歳で競技を始めた当初、体幹を鍛えるためバーチカル(ハーフパイプのような施設)に打ち込んだ。首都圏最大の屋内スケート場のムラサキパーク東京によく足を運んでいたという。

「ボードに乗った雄斗が『パパ引っ張ってぇ~』とわめきながら、グーっと押される姿がかわいくて」と笑みをこぼすのは小山みどりさん(39)。夫の久史さん(50)とともに、堀米が中学卒業までの5年間余り、週1回一緒に滑った。久史さんは「1週間後には、新しい技を覚えてる。いつしか雄斗に会うのが楽しみになっていました」と振り返る。

笑顔を絶やさぬキッズスケーターの口癖は当時から「スケボーでアメリカに行く」。周囲の大人たちからからかわれても、練習は止めなかった。転んでも、転んでも起き上がる。そんな姿が印象に残り、久史さんは「あの時言っていたことが現実になるとは」と驚く。みどりさんは「私たちにとっては雄斗は小さい頃一緒に滑った仲間のまま」と陰ながら見守っている。

高校卒業以降、米国で本格的に競技に励む堀米を支えたのは、カリフォルニアに住む吉田宏さん(43)の家族。今も釣りを楽しんだり、自宅に招いて食事を共にしたりと交流が続いている。

初めての出会いは堀米が大会に出場するため渡米した15歳の頃。1カ月ほどホームステイさせた。「知り合いの(現日本代表コーチ)早川大輔さんから頼まれたんです。僕も18歳の頃に単身でアメリカに来たから、人ごとに思えなかった」。緊張している印象を受けたが、月日がたつにつれ打ち解けた。アイスクリームをあげると、おいしそうに頬張る姿を見てほっとした。

スケートボード場に連れて行くと、少し滑るだけで視線を一身に浴びた。気が付くと周囲に人だかりができ、英語が話せずシャイな男の子はまるで「スケートボードを通じて会話をしているようだった」(吉田さん)。その後、米国で本格的に活動するなら生活が軌道に乗るまでアルバイトでもしたらどうかと勧めると、「僕はプロとしてアメリカに行きます」ときっぱりと言った。15歳の目ににじんだ強い覚悟。あの時から競技への向き合い方は変わってないと感じる。

 

堀米と他の選手との違いについて、バンタンデザイン研究所高等部のスケートボード&デザイン専攻2年の山下京之助(17)は「大会ごとに新しく、みんなが見たことのないトリックを用意する。同じ滑りが1つとしてないんです」と話す。

山下もワールドスケートジャパンの強化指定選手の1人に名を連ね、海外では「ニンジャ」の愛称で親しまれる若手スケーターだ。大会に挑むに当たって準備する上で、いかに他にはない独創性を表現できるか。その大変さを知っているからこその答えだった。

かねて夢だった新居は昨秋にロサンゼルスで購入し、すでにテレビ番組でも紹介された。庭には自前の練習場も完備し、コロナ禍で外出を控える中でも競技に専念する環境が整った。今夏の五輪を経てスケートボードの人気が一層高まった時、堀米雄斗こと「YUTO HORIGOME」が、その象徴的存在になる。そんな日が訪れるのも先ではないかもしれない。

 

◆堀米雄斗(ほりごめ・ゆうと)1999年(平11)1月7日、東京・江東区生まれ。バーチカル、ストリートを高いレベルでこなす国内屈指のオールラウンダー。高校卒業後の17年から本格的にアメリカに活動拠点を移した。ストリートリーグやXゲーム優勝を果たし、五輪予選世界ランキングは2位。20年秋には長年の夢だった「アメリカで家を買う」ことを実現させた。

 

◆ストリート

東京五輪のスケートボードのパークと共に行われる種目。街中にある階段、手すりなど模したコースで技を競う。障害物を飛び越えたり、レールなどを板で滑るトリックがある。難易度、成功率、スピード、独創性などを採点し、審査員5人のうち最高点と最低点を出した2人を除いた3人の平均点が得点となる。45秒のランを2回と、一発の技で競う「ベストトリック」5本の計7本を行い、このうち高得点4本の合計で競われる。