彫像のように動かなかった。右手でメダルを持っているが、表情がまるでない。「あれは、完全に怒ってるよなあ」。東京都水泳協会の内田孝太郎専務理事は、遠くから表彰台の池江璃花子(20=ルネサンス)を見て、苦笑いを浮かべた。

2月のジャパン・オープン。女子50メートル自由形で池江は24秒91の2位に入った。白血病からの復帰後初めての表彰台、しかも自身が持つ日本記録まで0秒70差。「自己ベストまでコンマ何秒の世界に戻ってこられてすごくうれしい」。そんな言葉とは裏腹に、まばゆいフラッシュを浴びても、ぴくりともしなかった。

優勝を逃した悔しい気持ちは、無表情というかたちで表に出る。小学生時代から池江を知る内田専務理事は「どんなレースでも勝負にこだわる。あれが璃花子なんだよなあ」。泳ぐことに喜びを感じる時間は過ぎ去り、池江は勝つことを求めていた。

白血病から涙の東京五輪-。4月3~10日の日本選手権で出場全4種目でV、2種目でリレー代表。日本中を驚かせた8日間の予兆は2カ月前に現れていた。

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4月4日、100メートルバタフライ決勝。決勝の入場ゲートで「ただいま」と口にした。50メートルのターンは27秒16で2番手。ラスト25メートル付近でトップに浮上。予選、準決勝で失速した最後の10メートルは無理に水をかかずに、推進力を信じて、体を伸ばしてタッチした。

57秒77で優勝。北島、萩野らを育てた平井伯昌コーチが「どういうタッチをするかなと思って、コーチとしても興味深かったが『こうやってくるか!』と。最後、かかないで伸びてタッチしてうまく合わせてきた。本当にすごいな」とうなった。

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優勝タイムの57秒77を予想した人は、ほとんどいないはずだ。池江は2月20日の東京都オープンで復帰後初めて100メートルバタフライを泳いだ。自身が持つ日本記録は56秒08で、予選は1分0秒06、決勝は59秒44で3位。復帰後は自由形で試合に出ており「バタフライはこんなにきつかったっけ。出るのは早かったかな」と本人がいったのも無理はなかった。

小学校時代の恩師、清水桂コーチも「バタフライは、ちょっと時間がかかるのかな」。そんな復帰後初レースとなった予選から、わずか1カ月半でタイムを2秒29も縮めた。

1カ月半の変化も予想外だが、やはり準決勝から決勝まで一夜での変化が劇的だった。決勝前日の予選は全体2位の58秒68、準決勝は同3位の58秒48。池江は決勝進出が目標で、決して余力を残して泳いでいない。本気で泳いだ準決勝で、予選から縮めたタイムは0秒20だった。

1カ月半前の決勝から1秒04の短縮。ここまで想像の範囲内。そして翌日の決勝で、仮に0秒50短縮して57秒98になれば、最高の泳ぎといえる。

実際に、代表権を狙っていた、ある選手のコーチは「57秒台に入ってくれば、リレー代表が見えてくる。決勝は(58秒30で準決勝全体1位の)長谷川(涼香)だけを見ておきなさい」と教え子にアドバイスしたという。

リレー代表は1枠で、派遣標準記録が57秒92。派遣標準記録の前後が優勝タイムになる-。しかし池江の優勝タイムは準決勝から0秒75も上がって57秒77。同コーチは「そこ(池江)は考えてなかった。しかも57秒7台。僕は(教えている)選手に謝らないといけない」と肩を落とした。

教え子に自国開催の五輪切符がかかるレース。何度もシミュレーションを重ねたライバル陣営も予想できない池江の泳ぎだった。

決勝でドルフィンキックの回数を増やして、タッチの方法を変えた。それでも、池江自身の「57秒台が出るとは思っていなかった」という言葉は本音だった。

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負けず嫌いな心。池江は、復活の原動力をそう表現する。もともと3人きょうだいの末っ子。幼児教育の教室を開いている母は、末っ子でも特別扱いはしなかった。姉、兄と張り合って「璃花子を見て」「璃花子のことが好きじゃないの」とせがんだ。

かるたではパッと勢いよく手を出して、母の爪をはいでしまったこともあった。「赤ちゃんの一番いいタイミングで生まれてきてほしい」と母が水中出産を選択した「水の申し子」。プールに入れば、練習でも試合でも負けたくない気持ちが沸き上がる。

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最も分が悪いと思われたバタフライで五輪を決めて、その後はレースのたびにエネルギーがみなぎるようだった。「泳げば泳ぐほど自信がついていったし、楽しいなって純粋に思ってレースをしてました」。4月8日に100メートル自由形で優勝。400メートルリレー代表を1番手で決めて「自分がチームを引っ張っていくつもりで」と早くも本番を見据えた。

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最終日の4月10日は1日3レースを泳いで、50メートルの自由形とバタフライで2冠を達成した。午後の決勝2本はレース間隔がわずか1時間だったが、ものともしない。

「日本で負けるのは今年で最後にしようと思ったけど、いい成績だった。いずれは(自分の)日本記録も狙っていけるようになるんだじゃないかな」

平井コーチは「最初は自信がなさそうだったが、大会中にがらりと雰囲気が変わった」。五輪選考会という真剣勝負の中で、自信あふれる姿に戻っていった。

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5月22日に復帰後初めて200メートルのレースを自由形で泳いだ。自身の日本記録は1分54秒85だが、2分8秒44で決勝に進めなかった。200メートルの練習はしておらず、あくまで現状把握が目的。指導する西崎コーチは「正直、手探りな状態でしたが、これをきっかけにスタートしていきたい」。

いわゆる「調整レース」ともいえない1本。それでも池江は一夜明けてレースを質問されると「あまり振り返りたくないですが…」と無表情になった。池江にとって、悔しさは苦笑いでごまかす類いのものではない。

6月7日、ジャパンオープンでも100メートル自由形で五十嵐千尋に惜敗して2位。いつものように、表彰台では表情がなかった。「甘い世界じゃないな。悔しい思いは、長い競技生活の中で収穫になる」。

無表情は、20歳が強くなるサイン。見据える先は、24年パリ五輪でのメダル獲得だ。国内で勝つことに喜びを感じる時間は、もう過ぎ去った。これから海外トップに再び挑むステージに入る。東京五輪での経験が、池江をまた強くする。

【益田一弘】