鮮やかな浴衣を着て歩くカップルや家族を見て、思わずため息をついていた。

今から20年前の2001年8月8日。京都府スケート連盟のフィギュア部長を務めていた当時53歳の加藤真弓は、自宅の最寄りだった滋賀県の大津駅から電車に乗り込んだ。

その日、琵琶湖では毎年恒例の花火大会が予定されていた。アイスダンスの元全日本王者で、引退後は審判員として国内外の大会で活躍していた加藤は、人々の流れに逆らうように京都の西京極へと南下した。「ひどい日に出かけることになってしまったわ。ラグビーで有名な人が、急にどうしたんだろう…」。頭を簡単には整理できなかった。

西京極で出迎えられたのは、テレビで見た人だった。京都・伏見工高(現京都工学院)ラグビー部の総監督を務めていた5歳年上の山口良治。不良生徒を束ね、監督就任6年目で同校を日本一に導く物語は、テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」に描かれた。のちにNHKで放送された「プロジェクトX」を加藤も見ていた。京都市スポーツ政策監となっていた初対面の山口に、突然、告げられた。

「来年、フィギュアスケートのNHK杯を、京都で開催しようと思います。よろしくお願いします」

とっさに思った。

「えっ…。断りたい…」

京都府連盟のフィギュア部門を動かす加藤にとって、その構想は寝耳に水だった。翌2002年夏、西京極総合運動公園内に位置する京都アクアリーナの完成に花を添えようと、連盟側は同年12月の全日本選手権招致に動いていた。アリーナの初代館長となる山口が、NHK会長の海老沢勝二に直談判したことがきっかけだったとは、すぐ後に聞いた。

仮にNHK杯も行えば、わずか1カ月足らずで2つのビッグイベントを開催することになる。激務は容易に想像できた。何より1979年から歴史を刻んできた国際大会のNHK杯を、京都で開催した例はなかった。それでも、加藤は簡単に「やめましょう」とは言えない空気を察していた。

当時のフィギュアスケートは、現在ほどの人気とは言いがたかった。1980~90年代に活躍した伊藤みどりが引退。自国開催だった直近の1998年長野五輪は男子が本田武史の15位、女子は荒川静香の13位が最高だった。新アリーナは夏はプール、冬はスケートで使用することになり、名称は市民から募集した。加藤もそれを決める会議に出席していたが、候補には「○○プール」と水泳が強調される名称が並んでいた。それほど、京都にとってスケートは遠い存在だった。

後戻りはできなかった。連盟の職員を巻き込み、3カ月半後には山口らと熊本で行われたNHK杯を視察した。翌年の京都開催が正式決定し、年を越すと、さらに慌ただしくなった。その状況下でも「京都らしさ」の発信にこだわった。

地元のコーチと店を巡り、扇の模様が入った着物を調達。NHK杯本番のオープニングセレモニーでは、その衣装を着た小学生が演技し、各国の選手や関係者をもてなした。男子は本田武史が2位と躍進。女子は恩田美栄が1991年の伊藤みどり以来、日本勢11年ぶり優勝の快挙を成し遂げた。エキシビションでは中学3年の安藤美姫が4回転ジャンプを着氷。大会は大盛況で幕を下ろした。年末に同じ京都アクアリーナで行われた全日本選手権でも、小学6年の浅田真央が大会初の3連続3回転ジャンプを着氷させ、その名を全国のファンに知らしめた。

あれから19年の年月が流れた。リンクの閉鎖が相次いだ京都だったが、2019年には宇治市内に木下アカデミー京都アイスアリーナが完成。山口が初代館長を担った京都アクアリーナも大会などで活用し、スケート界の発展に寄与している。京都府連盟の副会長となった73歳の加藤は、その一部始終を見守ってきた。

この秋、加藤は静かな京都御所周辺を歩き、山口が行きつけの喫茶店を訪れた。2年ぶりの再会だった。あの日、着物の衣装でNHK杯のオープニングセレモニーを滑った少年の1人は、コーチとして活躍しているという。そんな思い出話に花を咲かせながら、アイスコーヒーを手に言った。

「京都の人たちにとって、あれでスケートが随分と身近になったと思います。チャンスを逃さず、引き寄せる力。あの1年で先生から学ばせてもらいました」

手探りで作り上げた国際大会だった。そのレガシーは、フィギュアを愛する1人1人の胸に刻まれている。(敬称略)【松本航】

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