箱根駅伝連載は今日25日から第3テーマ「伝説」がスタートします。一時代を築いた名選手たちが当時の心境や、とっておきの秘話などを語り尽くします。第1回は、早大で4年連続「花の2区」を走った瀬古利彦氏(54=現日本陸上競技連盟理事)。優勝こそ果たせなかったが、3、4年時には区間賞を獲得、強烈な個の力で早大を低迷期から脱出させました。並行してマラソンでも世界レベルの結果を出した屈指のスター選手でした。

 瀬古はマラソンで15戦10勝という日本史上に残る戦績を残した。驚くのはそのうち2勝は、早大時代に箱根駅伝の1カ月前の福岡国際マラソンで記録していることだ。2年時の同マラソンで日本人最高の5位。連覇した3、4年時には、箱根駅伝でも2区で区間賞を獲得した。後にも先にも、そんな大学生はいない。怪物だった。

 瀬古

 今も昔も箱根の前にマラソンという発想は浮かばないと思う。でも大学卒業年の80年にモスクワ五輪があった。箱根以上の目標があった。毎日30キロ走るから、2区の24キロは楽だと思うようにした。でも実際走ったらきつい。福岡の後は2週間ぐらい走れない。気持ち的にも燃え尽き症候群に近かった。

 多くの学生、OBにとって最大目標は箱根駅伝。批判の声も耳にした。使命感に駆られ、走った。

 瀬古

 OBから「まだマラソンは早い。しっかり駅伝を走ってからでいいのでは」と寮に電話がかかってきた。だから1カ月、気持ちをつなぎとめられた。走れなかったら中村先生(監督)が「瀬古をつぶす気か」と言われる。そう言わせないため、早大のために頑張らないといけなかった。

 大車輪の活躍を見せた瀬古も1年時の箱根駅伝は厳しさを味わった。高3時に志望していた早大の受験に落ち、1年間、米国留学で浪人生活を送った。大学入学後も、この1年のブランクが影響した。

 瀬古

 練習していなかったから不安で怖かった。走ったのもあまり覚えていない。残り3キロでおなかが痛くなり、呼吸できなくて歩きそうになった。ジープに乗った中村先生からは「そんな走りだったら、家帰って雑煮でも食ってこい!」と言われた。

 区間11位。そして早大が箱根駅伝では弱小だということを痛感した。

 瀬古

 復路で10区のアンカーの応援に行ったら、応援している人に「お前、早大の学生か?

 早大は出るだけでいいんだ」と励まされて、「こんなに早大は弱いのか」とガクッときた。最後は中村先生の自宅で「お前ら悔しくないのか!」と言われ、みんなで泣いた。来年こそはと思った。

 屈辱をバネに2年時には月平均800キロの猛練習をこなし、地力をつけた。2区区間2位まで躍進した。そして3年時の福岡国際でマラソン初優勝。箱根では2位でタスキを受け、2区で日体大を抜き、区間新で早大が25年ぶりにトップを走った。そして4年時、直前の福岡国際で連覇し、モスクワ五輪代表に選出された。空前の瀬古人気で、最後の箱根を迎えた。

 瀬古

 影武者を用意した。新聞社、テレビ、ファンが集まってアップできないから、影武者がフードをかぶってオレの格好をした。彼に他の部員が「瀬古、頑張れよ!」とか声かけてね。みんな角刈りで、下を向くと分からない。それで悠々と裏でアップした。

 前年に記録した区間新を41秒更新する1時間11分37秒の新記録。12秒差で追っていたトップの日体大に逆に3分37秒もの差をつけた。それでもゴール後もなぜだかダッシュした。

 瀬古

 マスコミ、ファンが来ると大変だから、タスキを渡した後も50メートルぐらい走って(伴走の)ジープに飛び乗った。最後の坂を上った後だからきついけどね。でも晴れやかな気持ちで風が気持ち良かった。沿道のファンも3区の選手を見てなくて「瀬古、頑張れ!」ってね。「走っているのは3区の選手だから」と思って、かわいそうだった(笑い)。4年生の時の人気ぶりは異常だった。佑ちゃん(斎藤佑樹)みたいだったんだから。

 それでも在籍時の早大は往路、復路、総合でも1度も優勝できなかった。当時は推薦入試もなかった。中村監督の猛練習に耐え、チーム力も上がったが、総合3位が最高成績だった。

 瀬古

 1回もトップになれなかったのは寂しいよね。

 絶対的なエースがいても勝てないのが箱根駅伝。それを瀬古は身をもって証明した。【取材・構成=広重竜太郎】