【オリックス週間②佐野皓大】空き番「41」を12年ぶりに背負った電光石火 イップスが授けてくれた覚悟

ウィークデー通しのオリックス特集。第2弾は佐野皓大外野手の書き下ろしです。現在の球界で、最もスリリングな走塁技術を誇る万能型。何かにつまづいている人。何かを心配している人…心の中のプラットホームに「ストーリーズ」をお届けします。

ストーリーズ

真柴健

大谷翔平のように特別な能力で二刀流の道を突き進む者がいれば、プロ野球の世界で生き残るために「変化」していく者もいる。オリックス佐野皓大外野手(25)は「投手」として入団したが、イップスが原因で野手に転向。さらに両打ち挑戦、内外野を守るユーティリティープレーヤーとして1軍定着を果たした。佐野皓が「進化論」の経緯を明かした。

同点2ラン放ち、吉田正(左)とヒーロに。右腰の「ポンタ」もニッコリ=2022年4月3日

同点2ラン放ち、吉田正(左)とヒーロに。右腰の「ポンタ」もニッコリ=2022年4月3日

★最速152キロの本格派 大分高から14年3位

佐野皓は、最速152キロを計測する右の本格派だった。14年ドラフト3位で「投手」として入団。3年目の17年オフに転機を迎える。投手人生のマウンドを降りた。

「イップスでしたね…」

現役選手の、衝撃の告白だった。

「全然、投げられなくなったんです。もう、プロ生活は無理だろうなと感じてました。マウンドに立つと、どうしても投げられなかった。気持ち悪い感じがして…。これはダメだと、自分でもわかってました」

忘れもしない。17年5月21日のウエスタン・リーグ広島戦(三原)だった。

「ブルペンの後ろにネットが1枚あったんですけど、1回、暴投してから…。まともに投げられなくなりました」

球が上ずったり、意図せずバウンドしたり…。ストライクゾーンに投じることが、できなくなった。

「あ、終わったなと。(投手としての)手応えが、ちょっとずつあったんですけど、急にイップスが来たという感じです」

1度は、プロ野球選手との別れも覚悟した。しかし天性の脚力とバットコントールが自らを救うことになる。

「気分転換で、打撃練習してみたんです。そのとき、本当にいろんな人が心配してくれていた。ダッシュのタイムを計っているときも、だいたい1番でした」

バットを握ると、白球を追う楽しさを思い出した。

★17年7月 思いもよらない打診

小学4年で野球を始めた佐野皓は、地元・大分の「佐伯リトルヤンキース」に入部。内野手でスタートした野球人生は、次第に投手へと活躍の場を移った。

「小学6年では捕手もしていましたよ」と笑うように、万能タイプの少年だった。今も昔も変わらないのは「だいたい1番の組でしたね」と語る、足の速さだった。

明豊を下し甲子園へ=2014年7月24日、別第興産スタジアム

明豊を下し甲子園へ=2014年7月24日、別第興産スタジアム

大分高に進学すると、1年秋にはエースの座を奪った。主に「1番投手」。ときには「4番投手」として、躍動した。

14年7月24日。決勝で明豊を延長10回6-5と破り、悲願の甲子園初出場を決めた。春夏通じて、初の快挙に「プロに行ける自信は、内心ありました」と明かす。

運命のドラフト指名は、オリックス3位で呼ばれた。

「連絡が来たときは頭が真っ白になりましたね。今までにない感情がありました」

感謝の気持ちを込めてスタートした。3年で1度も1軍マウンドに立つことなく、投手人生が終わるとは知らなかった。

イップスに苦しみ、あきらめかけた17年7月。容赦ない夏の日差しの中で、思いもよらぬ打診があった。

「野手転向、どうや?」

声の主は、当時、育成管理部長だった熊谷泰充氏だった。佐野皓の気持ちは、見上げた快晴と同じだった。

「救われました。正直、投手を諦めていたんで。もう、僕としてもキツかった。高校時代とは全然違う投球フォームだったし、その前に投げられなかった。プロ野球人生、ここで終わりだろうなと思っていたときに、その一言がありました」

熊谷氏の言葉に深くうなずくしかなかった。「もう1回、生きるチャンスがもらえた。そこでダメだったら、もういいや。それぐらいの覚悟でした」。

★佐竹コーチと二人三脚

17年オフ、育成契約に切り替わり、背番号は3桁「121」へ。投手から野手に、生まれ変わった。

10年ほど投手として生きてきた。だが、野手に転向すれば、練習内容が全く違った。

「きつかったですね。投手のときより全然。レベルが違いました。バットをちゃんと振るのも何年ぶり? 打球が飛ばない。打撃練習が終わっても走塁練習がある。そして、守備練習。一日中、練習。疲れ方が違いました」

ただ、心の奥深くには、野球ができる喜びがあった。

当初は遊撃を守っていたが、俊足を生かすために、外野手にも挑戦。

フェンスの形が教えてくれるスピード。恐れなどない=2020年10月13日、京セラドーム大阪

フェンスの形が教えてくれるスピード。恐れなどない=2020年10月13日、京セラドーム大阪

「(足は)自信がありましたね。盗塁技術はなかった。走塁は佐竹さん(学、現楽天コーチ)に出会ってから。佐竹さんと2人で基本を教えてもらいました」

ゼロからのスタートに、熱心な指導を受けながら二人三脚で歩んだ。

当初は右打ちだったが、一塁到達タイムが速いこともあり、左打席にも挑戦した。その結果、両打ちに。

「もっと出塁率も上がってヒットも出るんじゃないかと。足の速さを生かすための左でした」と明かす。

投手から野手、野手では内野から外野、さらに右打ちから両打ちへ。今季でプロ8年目を迎えるが、めまぐるしく形を変えた。

★18年7月31日 再び支配下

「1度は死んだ身。プライドは消えました。何をしてもマイナスはない。全部をプラスに考えて、いろいろなところをやらせてもらえたら」

プロ球界という厳しい環境でいかに生き残るか。佐野皓は変化を恐れなかった。18年7月31日には支配下選手登録を再び勝ち取った。

背番号にも変遷があった。入団当初の「12」から「64」。そして「121」。支配下に返り咲いたときは、「93」をつけた。

19年には1軍で68試合に出場し、翌年は「41」に変更した。これは10年に急逝した小瀬浩之外野手の番号だった。

「今の番号が、一番、思い入れがあります。自分が選んだ番号なので」。故人は俊足好打の有望株だった。

★誕生日もスタイルも 小瀬浩之さんと重なる

「僕の野球スタイル、プレーを見た人が『前にいた小瀬みたいやな』と言ってくれた。そこから興味を持って調べるように。偶然、誕生日(9月2日)も一緒で…。次、41番をつけたいなと思っていました」

登場曲は小瀬氏と同じ「THE BLUE HEARTS」の「電光石火」を使用している。

「前からオリックスファンで、応援してくれている人が小瀬さんを忘れないように。その代わりというと変な感じになりますけど…小瀬さんを応援していたファンの方々が僕を応援してくれるとありがたいなという思いがあります」。息の長い選手になりたい理由がある。

佐野皓は「進化」の末に、今や、1軍ベンチに欠かせない存在になった。

「一番は投手として…。投手でうまくいくのがよかったと思う。もし、投げられていたなら…という話ですけど。でも、僕の人生はこっちだったのかな」

今季からは外野だけでなく、一塁も守る。不屈のチャレンジ精神で、プロの世界を生き抜く。