【オリックス週間⑤上田利治さんを悼む】阪急からオリへ 勇者のマインドを紡いだ鬼才/山田久志氏の回顧

ウィークデー通しのオリックス特集。最終回は、阪急時代に日本一3度、リーグ優勝5度の名将、上田利治さんをレクイエム。球団史の中核を担う、強いチームを築きました。エースとして支えた山田久志氏の、丁寧な回顧です。(2017年7月3日掲載。所属、年齢などは当時)

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日刊スポーツ

山田久志と上田監督。3年連続日本一の乾杯=1977年10月27日

山田久志と上田監督。3年連続日本一の乾杯=1977年10月27日

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。関大時代に故村山実氏(元阪神)とバッテリーを組み、59年に広島入団。捕手として3年間で121試合に出場、2本塁打、打率2割1分8厘。62年から広島、阪急のコーチを歴任し、74年に阪急監督に就任。優れた統率力で阪急を常勝チームに変え、75年から3年連続で日本シリーズ制覇に導いた。78年のヤクルトとの日本シリーズ第7戦で本塁打の判定を巡り、1時間19分抗議した。その責任を取って辞任したが、81年に復帰して阪急、オリックスで10年間指揮を執った。95年から5年間は日本ハムの監督を務めた。監督通算20年間の成績は1322勝1136敗116分け。最下位の経験は1度もなく、リーグ優勝が5度、日本一は3度。監督時代には「ええで、ええで」と選手を褒めることでも有名だった。03年、野球殿堂入り。

▷3年連続日本一

上田さんは激情の人だった。

普段は温厚なのに、いざグラウンドに入ると熱くなって、激しく振る舞った。阪急を強くしたい一心だったに違いない。

広島で実働3年だけの捕手だった上田さんを、阪急のコーチに招き、監督に推したのは西本幸雄さん。名将の眼力だった。

三羽がらすと呼ばれた門下生の私、福本(豊)、加藤(秀司)が円熟していたから、阪急が勝つと、常に「西本遺産」といわれた。

しかし、上田さんは自らの情熱で常勝チームをつくり上げた。もっとも輝いたのは3年連続日本一を成し遂げた時代だろう。

75年広島を下して球団初の日本一、76、77年は巨人を倒した。阪急を「球界の勇者」に育てたのは、上田さんの手腕だった。

▷マルカーノ獲得、4対3の大型トレード

しかも、厳しい指導とともに、勝つたびにチームを刷新する。DH制が導入された75年は、ベネズエラ出身のボビー・マルカーノ内野手を獲得(同選手は阪急、ヤクルトで通算1418安打)。76年は日本一になった直後に、中日と4対3の大型トレード(阪急は稲葉光雄、島谷金二、大隅正人を獲得。中日は森本潔、戸田善紀、大石弥太郎、小松健二を獲得)を敢行したのは驚きだった。

ヤクルトとの日本シリーズ第5戦で本塁打を放つマルカーノ=1978年10月19日

ヤクルトとの日本シリーズ第5戦で本塁打を放つマルカーノ=1978年10月19日

血の入れ替えを図って、刺激を与えながら勝利に導いた。

監督としては、南海、ヤクルトなどで指揮を執った野村克也氏の「考える野球」を意識していたふしがある。当時はあり得なかった一、三塁からのヒットエンドランなど奇策は、上田さんの発想によるものだ。

▷「ギャンブルスタート」考案

特に短期決戦では緻密なデータに基づいた作戦を駆使し、自分は「野村野球」の上をいってやるんだという気概も感じた。大変な読書好きで、遠征先にも必ず手元に4、5冊の本を置く勉強家だったのも思い返される。

西本さんから受け継いだ「阪急魂」を継承し、阪急ブレーブスの黄金期を築かれた上田さんは、まさに名監督だった。心より哀悼の意を表したい。(元阪急投手)