【ロッテ週間⑤伊良部秀輝さんを悼む】マリンの第2ロッカー室が俺たちの居場所―小宮山悟

伊良部秀輝さんが、米ロサンゼルス郊外の自宅で死去した。死因は首をつっての自殺とみられる―2011年7月28日(日本時間29日)、ロス郡保安官事務所当局者の発表に球界は驚き、深い悲しみに包まれました。多くの方がコメントを寄せましたが、ロッテ時代の同僚、小宮山悟氏(現早大監督)の言葉には、身近な者だからこその重みがありました。稀代の本格派が去って11年の回顧です。(2011年7月30日掲載。所属、年齢などは当時)

傑作選

小宮山悟

◆伊良部秀輝(いらぶ・ひでき)1969年(昭44)5月5日、沖縄県生まれ。尽誠学園(香川)のエースとして86、87年夏の甲子園出場。87年ドラフト1位でロッテ入団。93年の西武戦で、清原に対し当時国内最速の158キロをマーク。97年にヤンキース移籍。6年間のメジャーを経て、03年阪神入りし日本復帰。同年13勝を挙げリーグ優勝に貢献。04年オフ退団。09年米独立リーグで現役復帰し、同年8月には四国IL・高知に移り2試合登板。現役時193センチ、108キロ。右投げ右打ち。11年7月28日、米ロサンゼルス郊外の自宅で死去。42歳。

牛島和彦とヒーローインタビュー。スケールの大きさが分かる=1988年9月24日

牛島和彦とヒーローインタビュー。スケールの大きさが分かる=1988年9月24日

【悼む】トラブルメーカー呼ばわり反論 かばったのではない

突然の話で信じ難い。まだピンとこないが、事実なら残念でならない。

素顔は気の小さい男で、また繊細だった。ただ自分で気の強さを取り繕うところがあり、無理な虚像を演じて誤解を招いた。

ロッテを飛び出した97年、その経緯でトラブルメーカー呼ばわりされたが、私はコメントを求められるたびに「あんな男ではない」と反論した。かばったのではなく、本当の伊良部を知っていたから、負のイメージを打ち消してあげたかった。

まだロッテが低迷していた90年代。伊良部と私でローテーションの柱を担っていた時期に実力を認め合い、お互いウマもあった。

1993年5月3日、西武清原に対し158キロを計測した投球フォーム。屈指の本格派であり、屈指の理論派でもあった

1993年5月3日、西武清原に対し158キロを計測した投球フォーム。屈指の本格派であり、屈指の理論派でもあった

当時マリンスタジアムにあった第2ロッカー室で、2人が登板のない日は、この小部屋にこもるのが常だった。談笑のテーマは野球の他にも、取り巻く環境への改革論など。愚痴ったり、怒ったり、ときに爆発しそうになる伊良部をたしなめるのが、私の役目だった。

第2ロッカー室が私たちのサロンで、95、96年が、伊良部の絶頂期だったと思う。もっぱら私が聞き役を務めているうちに、メジャーへの思いを募らせたのだろう。確かな野球理論を持っており、フォームなど新しい技術に取り組む前には必ず「小宮山さんはどう思います?」と問われた。

メジャー入り後は疎遠になったが、02年、私がメッツに入団した時、キャンプ地に電話をもらって4時間、語り合ったのが昨日のことのように懐かしい。

本当は寂しがり屋で、誰かと話したくて仕方がなかった。そんな寂しがり屋の、かわいい後輩といずれまた、技術論を交わしたかった。