石川は、人生をかけた家族の支えがあってこそ、東京五輪で奮闘できた。

小学2年生で全国バンビの部で優勝。父公久さん(57)は意を決した。アパート暮らしをやめて家を買う。1階に卓球場、2階に住居という特殊な構造のため業者を探すのも大変だった。

小学時代はバレエ、水泳、公文、ピアノなどさまざまな習い事をしたが、一番のめり込んだのが卓球だった。公久さんは、石川が将来、卓球で生きていくと決意したのは「小6で全国優勝してから」と話す。

中1から大阪の四天王寺中に卓球留学。公久さんはその時から今まで、愛娘と1つ屋根の下で暮らすことはなくなった。それでも「さみしくはありません。彼女の応援に行くために一生懸命働こうと思ってました」と笑顔で振り返る。

母久美さん(57)も「まだ、しつけも終えていない。中1の娘を親元から離すことには葛藤があった。でもこの子の幸せを願って選んだ道」と覚悟を決めた。

その選択が成功へと導いた。12年ロンドン五輪、初出場で団体戦銀。続く16年リオ五輪でも団体戦銅を獲得した。そして挑む東京五を前に試練が待っていた。

19年の代表選考レース。石川はシングルス代表の当落線上にいた。組み合わせの不運などもあり、思うようにポイントが伸ばせない。普段は久美さんが海外遠征に帯同していたが、青学大卓球部としての最後の大会を終えた妹梨良さん(24)にバトンタッチした。

「梨良は子どもの時からくじ運がいい。コンビニのくじでジュースが当たったり、倍率が高いコンサートチケットも当てる」と久美さん。その運が石川にも波及したのか、19年12月の最終戦、わずかなポイント差で平野を上回りシングルス代表をつかみとった。

石川は言う。「卓球を始めた時に卓球場を造ってくれたり、思い切りの良さで支えてくれた。なかなか難しいと思うんです。子どものために何にも将来の補償はないのに自宅を卓球場にしようというのは、私だったら簡単には決断できない。だからこの年になって、あの時、夢を支えてくれたことがすごくありがたかった」。

地元の五輪でメダル獲得。大きな恩返しができた。【三須一紀】