レスリング女子50キロ級で須崎優衣(22=早大)が、決勝で孫亜楠(中国)を下し、金メダルをつかんだ。

開会式では旗手も務めた「東京五輪の申し子」。1度は出場が絶望視された舞台で、全4試合を無失点のテクニカルフォール勝ちした。14年からの対外国人の連勝を「70」に伸ばした。同競技は最終日を迎え、女子はリオデジャネイロ五輪に続き4種目を制覇した。

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一気に回した。「執念で決めにいきました」。須崎は開始1分36秒、低い姿勢からタックルを放ってテークダウンを奪うと、もう手には相手の両脚を捕獲していた。アンクルホールドで回しに回す。2点が加点される度に、夢見た瞬間は近づいた。4試合連続の無失点でのテクニカルフォール勝ち。「本当に今の自分があるのは、関わってくれた全ての人のおかげなので、感謝の気持ちでいっぱいです!」と号泣した。

「執念」。それは中2で親元を離れ、有望選手を寄宿制で育てるJOCエリートアカデミーに入校してから、何度も課題ノートに書き込んだ言葉だった。当時、体重37キロの細身に宿していたのが「勝ちたい」という意志。

ある時、ホテルの椅子に涙がこぼれたことがあった。「ぽたっ、ぽたっ」。突然の音に、吉村コーチが驚いた。顔をのぞき込まれ「どうした?」と聞かれると、須崎は「勝ちたくて涙が出てきました…」と返した。試合前夜、2人でライバルの映像研究をしている時だった。勝ちたい気持ちが強過ぎて、逆に怖さ、不安が生まれる。2時間も泣き続けた。それほど勝ちにこだわってきた。

だからこそ、1つの負けが心を突き刺した。19年6月、東京五輪代表につながる世界選手権のプレーオフで、入江ゆきに敗れた。メダルで代表内定で、日本の軽量級は間違いなく表彰台に上る…。14歳で開催が決まってから追い求めた母国大会。それが見えなくなった。「何のためにこれから生きていけば良いのだろう…」。どん底に落ちた。

吉村コーチとの帰りの車中。「0・01%の可能性を信じてやろう」と語りかけられた。3日後、タイに遠征中の恩師へ、須崎は長文のLINEを送った。「五輪は本当に遠くなってしまいましたが、0・01%にかけたい」。必死に前を向き、マット練習を再開した。

入江が切符を取れず、須崎はその後に雪辱を果たし、4月のアジア予選で自力で出場権をつかんだ。その大会、コロナ禍でパートナーを連れていけず、中学時代以来、吉村コーチと組み合った。アゴにアザまで作る姿に感謝し、五輪を決めた夜には「つがせて下さい」とお酒断ちしていた恩師の部屋を訪れた。今大会も一緒に最終調整。金メダルを決め、固く抱き合った。

表彰式、プレゼンターを務めた4連覇の伊調馨から「また次も、その次も頑張ってね」と期待され、大きくうなずいた。「勝ちたい」。その気持ちは消えることなく、まずは3年後のパリへ。【阿部健吾】

○…「2020」。須崎の育った千葉県松戸市の実家には、その数字が書かれた記念フラッグがずっと飾られていた。08年1月、父康弘さんと2人で出場した「松戸市七草マラソン」。ファミリー2キロの部で与えられたのが「2020」のゼッケンだった。

当時は東京開催が決まる5年前。「他にも水泳やピアノもやっていたんですが、レスリングがピンときた。体を動かすことが好きで、マット運動が楽しかった」と小1で競技を始めて数年後だった。母和代さんは「このゼッケンはずっと飾ってあったんです。何かの運命なんですかね」と懐かしむ。

JOCエリートアカデミーに入り、東京開催決定直後から、金メダル候補として期待された「東京五輪の申し子」。1度は道が閉ざされたかに思われたが、五輪は見放さなかった。「TOKYO 2020」の会場で戦う姿。確かに、それは「運命」だったのかもしれない。