ようやく、理由が聞けた。11月、天理大の道場だった。柔道の大野将平(29=旭化成)があの時の言葉の真意を説明してくれた。

「普通だと『勇気や感動を与えたい』というところじゃないですか。それはこちらの押しつけだと思ったので、心が動いてくださればという言い方になったんだと思います」

振り返っていたのは、4カ月前の東京の夏。決勝戦の9分26秒の死闘を終え、オリンピック(五輪)2連覇を遂げた直後のインタビュー。壮絶な稽古の勲章のつぶれた耳からも汗を滴らせながら、「テレビ、ラジオの前の皆さんに金メダルの報告を」と促され、言った。

「(開催に)賛否両論あることは理解してます。ですが、我々アスリートの姿を見て、何か心が動く瞬間があれば…、本当に、うん、光栄に思います」

ひと言ひと言かみしめる間が、熟慮の結果を感じさせた言葉遣いだった。

当時、体操の会場から映像でその様子を見ていた。開幕前のコラムで、「勇気と希望」のフレーズについて、こう書いた。

「アスリートはあくまでも自分や近しい人間のためにスポーツに打ち込み、結果を求める。不特定多数への感情が入り込んではいない。それで完結し、その姿を不特定多数の受け手が見る中で、誰かに『勇気や希望』が生まれることもある。最初から『与える』ためにプレーする必要はない」

そこまで選手が考えなくても良いと思っていた。「光栄」。だから、そんな言い回しが響いた。きっと込められた信念がある。柔道担当に復帰した11月に、その答えを聞けた。

「こちらが与えるではなく、感じ取ってもらえるのは良いなと。受け手、取り手があり、なかなか難しいですが、強制的に押しつけることはしたくない。伝わるものも伝わらないので」

押しつけはしたくない-。決して他選手を否定しているのではなく、自分の理がある。心境の変化は16年リオデジャネイロ五輪以降だという。柔道教室で子どもを指導する機会などで、考えが動いてきた。得意技を教えて強くなってほしい願望より、ただ組み合い、乱取りをすることに重きを置くようになった。

「シンプルなところに戻ってしまった。結局、子どもたちに何が一番記憶に残るか。やはり一緒に乱取りをやったりなどだと思う」

自身も幼少期に古賀稔彦さんに組んでもらった経験が大きかった。思い出に残るのは、大人のエゴになりかねない技術指導ではない。だから、より多く、子どもと組み合う時間を設けるようになった。

大野はその経験を広げ、一アスリート、一柔道家として、「与える」ことに敏感になった。また同時に、「受け手」としての実感も大きかった。本来は与える側にいる監督との絆から痛感していた。ここまで9年間の日本代表生活を率いた井上康生氏。

「監督は我々に選ばせてくれていた。試合に出る、出ないも、自分で決めなさいと。今まではどうしても上の方が『与える』という風になる。自分の意思で選択する作業は年齢に関係なく大事なことですよね」

リオ後は指揮官と接する機会は非常に減った。節目に一言が届く、そんな関係に不安も、自分を疑うこともあったという。その真意を聞けたのは最近。「何も言うことはなかった」「指導者として育てたい選手は大野将平のような柔道家だ」。全幅の信頼と、押しつけずに見守る姿。自分もそうありたいと誓った。

冒頭の優勝インタビューでの言葉を終えた後、カメラの前を離れた大野の表情は一気に崩れた。熱いものが込み上げた目線の先にいたのは、井上監督だった。がっしりと抱き合う2人の関係が、この言葉も生んだのだ。真意に触れたいま、その抱擁に、一層心が動かされる。【阿部健吾】