世界中の方に知っていただきたい人がいます。今年11月で90歳となる稲田弘さんです。

トライアスロン界では世界的に有名な稲田さん。何がすごいというと、アイアンマン世界選手権の世界最高齢完走記録(85歳)保持者なのです。「アイアンマン」とは、スイム3.8キロ、バイク180キロ、ラン42.195キロの合計距離226キロで争う過酷なレース。今回は自ら、90歳以上という新たな年齢カテゴリー(年末の年齢で区分)を作り出し、前人未到の目標に向かってまい進し続ける稲田さんと、コーチの山本淳一さんにオンラインで話をうかがいました。


ハワイで合宿中の稲田さん(右)と山本コーチ
ハワイで合宿中の稲田さん(右)と山本コーチ

稲田さんは今年10月にハワイで行われるアイアンマン世界選手権の参加資格を獲得するために、現在ハワイで強化合宿中です。6月4日に予選会が行われ、ハーフアイアンマンで完走すれば、その権利が得られます。

  ◇  ◇

--あらためまして、稲田さんがトライアスロンを始めたきっかけを教えてください。

 稲田 60歳から水泳をやっていてマスターズの大会には出てました。64歳の時にスイムとランのアクアスロン大会に出たんです。その時に「意外とランニングもできるな」と思ってね。そこから5年出続けたんだけど、アクアスロン大会だからほとんどがトライアスロンをやってる人たちでね。ロードバイクがかっこいいのよ。ヘルメットとサングラスして会場に来る姿に引かれて、当時69歳で少し迷ったんだけどロードバイクを買っちゃいました。そして、70歳の時にトライアスロンの大会が千葉県の幕張で開催されると知って、エントリー。トライアスロンデビューをしました。

--そこからトライアスロンのとりこになっていったのですね。今、前人未到の挑戦をするところですが、稲田さんの向上心はどこから来るのですか?

 稲田 向上心なんてないない。この年だからもう向上はしないよ!(笑い)でもね、「できる」と思うし、それに挑戦できることが「うれしい」んだよ。

--今は1日にどのくらいトレーニングを?

 稲田 それはね、山本コーチにお任せしてる。彼に全てを託してる。

--山本コーチ、責任重大ですね(笑)

 山本 (笑い)今はボリュームのある日で1日8時間練習。もうね、プロですよ!できることをコツコツと淡々とこなしているかな。たまにブツブツ文句も言われながらね(笑い)



--山本コーチにとって稲田さんとはどんな存在ですか?

 山本 腐れ縁というか…切っても切れない仲かな。稲田さんが初の世界選手権に出た時に、途中でリタイアになったんだ。コーチとしては、しっかり練習も積んで、「これなら完走できるだろう」と自信を持って送り出したけど、結果はリタイア。自分のコーチとしての無力さを痛感した。それがきっかけで今があるんだけどね。その時、リタイアしてすぐに稲田さんから国際電話がかかってきて、リタイアした理由を話されたんだ。だけど、稲田さんの電話が長くて、国際電話だから心配になっちゃって(笑い)。そこからかな。コーチとしてもプライドを持って、稲田さんと向き合って、挑戦したいと思ったのは。



--稲田さんは普段から健康のために気をつけていることはありますか?

 稲田 食事は大切にしているよ。毎晩、メザシ、玄米、納豆にキムチ、そしてメインといってもよい具たくさんのみそ汁。栄養価の高いものをたくさん入れて食べてます。

--去年の3月、稲田さんはバイクトレーニングでの落車で骨盤を骨折して2カ月入院しましたよね。その時、私は稲田さんとLINEでやりとりをして、正直もうトライアスロンに復帰するのは厳しいのでは…と思っていて。ここにきて、パフォーマンスを戻して、さらに強化している姿が信じられないんです。

 稲田 けがは治るから。時間はかかるかもしれないけど、絶対に治る。今までもけがをしたことはあるけど、入院したのは初めてだったよ。でも意外と回復も早くて、何とか今年のチャレンジに間に合ってよかったよ。それも含めて、挑戦できていることは幸せだね。

--稲田さんにとってトライアスロンとは?

 稲田 今は人生の全て。トライアスロンができて「うれしい」んだ。挑戦できることが「うれしくてたまらない」。


2016年、筆者のリオデジャネイロオリンピック壮行会で
2016年、筆者のリオデジャネイロオリンピック壮行会で

 山本 結果はね、結果だから。だけど、挑戦することに意味があるし、挑戦する中でのプロセスが大切。それで結果として、完走できてもそうでなくても、挑戦することが大切なんだ。稲田さんもアイアンマン世界選手権には9回参戦してる。そのうち、完走は3回。制限タイムがあるから。1度、あと5秒で完走できなかったときもあってね。完走して「やったー!」と思っていたら、翌日の表彰式で制限タイム内でフィニッシュしていなかった…という時もあったり。稲田さんの年だと「また来年頑張ろう」とは言えないじゃない?(笑い)今年は10大会連続10回目の挑戦(コロナ禍で2年間はレース中止)。1年が大切だし、稲田さんの挑戦に、コーチとして後悔したくないんだ。

--予選、そして本番のために、5月15日にホノルルトライアスロン(オリンピックディスタンス=合計距離51.5キロ)に参戦して、今はハワイで強化合宿をされているのは、そのためなのですね。

 山本 そう。やれることを全てやって、挑戦したいと思ってるんだ。稲田さんにとってハワイでの世界選手権は特別。ニュージーランドのレースなどでは完走できるんだけど、ハワイは風もあるし、何より暑さ。今までは暑熱対策などせずに現地に入って、やはり慣れていないと身体がこたえる。今もハワイに来て2週間でようやく順応してきたかな? という感じだから、本番に向けたイメージはできたと思う。稲田さんのトレーニングも順調です。

--最後に…底知れぬエネルギーを持つ稲田さん。大切にしている言葉や座右の銘はありますか?

 稲田 「やればできる」。もちろん、練習している中で難しいなと思うときもあるんだけど、大抵のことはやればできるんです。ただやらないだけで、やればできる。私は90歳でもアイアンマンを完走できると思っているよ。「やればできる」と思えば、できる。


稲田さん(中央)とトライアスロン仲間。前列左端が筆者(2012年撮影)
稲田さん(中央)とトライアスロン仲間。前列左端が筆者(2012年撮影)

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私は稲田さんとお話しすると毎回勇気をいただきます。今回も話を聞いている中で何度も感激し、涙が出そうになりました。

稲田さんは戦争も経験しています。お仕事でも内戦をしている国へ出向き、記者のお仕事をされていました。その他にもたくさんの経験をされている稲田さんから出る一言一言には重みがあり、人の心を動かす力があります。

今回の挑戦も、この人類の中で稲田さんしかできないこと。

取材をさせていただいた中で一番印象的だった言葉は、『トライアスロンができて、うれしい』という言葉でした。

トライアスロンの中で最も長い距離を争うアイアンマンレース。前人未到の挑戦ができることへの喜びと、山本コーチとの絆。そして、挑戦を応援するたくさんの方々のパワーが、稲田さんの力になると思います。

(加藤友里恵=リオデジャネイロ五輪トライアスロン代表)