東日本大震災の発生から10年が経過しました。

出身の仙台市で被災したフィギュアスケート男子の羽生結弦選手(26=ANA)は当時、宮城・東北高1年生。自宅は全壊と判定され、避難所となった近隣の学校では、わずか2畳に満たないスペースに家族4人で身を寄せ合いました。あの揺れの後、雪が降った寒さと、頻発する余震に体を震わせながら。

羽生結弦(2020年2月9日撮影)
羽生結弦(2020年2月9日撮影)

10年後、羽生選手は冬季五輪(オリンピック)2連覇を遂げ、金メダルの光を沿岸部や福島第1原発の被災地に届ける存在になりました。世界で最も強くなるため仙台を離れ「申し訳ない」と思った日も。一方で復興支援や寄付を継続的に行っており、今年は11度目の「3・11」を前にコメントを寄せました。

震災10年…羽生結弦1182字エール「頑張って」

1182字。

熟考したことが、読み進めるほどに分かる文章ですが、思ってしまいました。文字数にも意味があるのでしょうか、と。

さかのぼります。昨年5月、羽生選手は日本スケート連盟の公式ツイッターに3本の動画をアップしました。東日本大震災の後に舞ってきた17のプログラムを披露。新型コロナウイルス感染拡大下、阪神淡路大震災や北海道胆振東部地震の被災地にも届けたエキシビション曲も織り交ぜて、コロナ終息への祈りと願いを込めました。

動画は2分18秒、1分48秒、1分5秒の3本。計5分11秒でした。すなわち311秒=3・11。昨年、担当になった記者としては率直に驚き、以来、何か思いが込められていないか考えるようになりました。

今回は1182字。まず後半の「82」は「羽生」と読めますね。では、前半の「11」は? これは3・「11」をはじめ、東日本大震災の月命日ですし、忘れることのできない20「11」年も「11」度目の3月11日も当てはまります。そこに寄り添う「82(羽生)」と、い(1)つまでも、一(1)緒に-。「1」位「1」位で金メダル2個とも受け取れます。

………。私の勝手な解釈ですし、そんな雑念などなく本人は純粋の思いをつづったのでしょうが…。大変失礼いたしました。

ということで、羽生選手が今回、感謝とエールを届けた東北地方。私も、当時は東北総局(仙台市)に赴任しており、震災直後は関西におりました。話は大きく変わるのですが、センバツ高校野球(春の甲子園)の取材です。あの地震に見舞われながら、被災地から出場を果たした東北高に密着していました。

11年センバツ1回戦で大垣日大に敗れ、ベンチ前に整列する東北ナイン(2011年3月28日撮影)
11年センバツ1回戦で大垣日大に敗れ、ベンチ前に整列する東北ナイン(2011年3月28日撮影)

引け目がありました。「自分は被災を免れて大阪におり、東北高の球児たちは想像を絶する事態に直面していた」と。私事ながら、妻も仙台で被災して避難所におりました。総局の同僚は沿岸部で懸命に取材しています。それでも、仙台には戻れません。センバツは開催され、東北高の一挙手一投足は連日、新聞の1面級。野球担当としては離れられませんでした。

帰れない負い目と、取材中も「申し訳ない」と肩身が狭い日々。同校の取材時間は1日10分間に限られる中、高校生に、野球ではなく被災地の現状を尋ねるのですから…。その上、ほとんど練習できなかったチームは、初回に5失点するなど初戦で敗退しました。それでも貫いた全力プレー。応援団不在でも、甲子園は沸騰しました。

当時の原稿です(11年3月29日付1面)。

東北頑張った あきらめない心/センバツ

この17日後-。東北高の始業式に、羽生選手の姿がありました。新2年生となり、被災後初めてクラスメートと顔を合わせ「ホッとしました」と笑顔を取り戻しました。同学年でセンバツに出場したのは吉川心平捕手、茶谷良太外野手、夷塚圭汰、斎藤圭吾の両内野手ら。1学年上のエース上村健人主将や副将の小川裕人遊撃手も含め、名門の野球部の活躍が励みになりました。

東北高の始業式に出席した羽生結弦(2011年4月14日撮影)
東北高の始業式に出席した羽生結弦(2011年4月14日撮影)

「自分だけスケートをしていていいのか…」。そう悩んでいた当時16歳でしたが、センバツをテレビ観戦し「全力でやっているのを見て、自分もやらなくちゃと思った。自分にはスケートしかない」と迷いを振り切るきっかけになったそうです。

10年後、羽生選手は被災地を勇気づける(と信じて支援を続ける)存在になりましたが、例えば吉川選手(結婚して現姓は金子)はTDKで、茶谷選手は鷺宮製作所で野球を続け、東北のことを思っています。

あの日から10年たちましたが、まだまだ復興は道半ば。1182字の語呂合わせから急展開しましたが、それぞれの立場で今も闘う被災者や、故郷に寄り添う方々を、また次の10年、20年と取材し、伝えていきたいと思います。【木下淳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)