浅田は多くの「チルドレン」を生んだ“母”でもあった。05年、15歳で初出場したグランプリ(GP)ファイナルでトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決め、優勝。その姿をテレビで見た子どもたちがスケート場へと向かった。18歳未満の日本連盟の競技者登録は05年の1769人から翌年は2133人、16年度は3854人に増加した。

 その中の1人が三原舞依(17=神戸ポートアイランドク)。昨年10月のGPシリーズスケートアメリカに浅田とともに出場。初めて一緒に滑り「やっほ」と声をかけてもらえたことを3位に入ったことと同じくらい「夢みたい」と喜んだ。3月の世界選手権では、ショートプログラム(SP)15位と出遅れ、失意の中で浅田のソチ五輪フリーの演技を見返した。完璧なフリーで6位と挽回し、ソチの奇跡を再現した。

 平昌五輪のメダル候補、宇野昌磨(19=中京大)にとって浅田は「人生を大きく変えてくれた人」。5歳の時、名古屋・大須のスケート場で声をかけられたのが競技を始めるきっかけだった。「あれだけ頑張らないとトップにいけないんだ、と。尊敬し、手本にしてやってきました」。シニア、ジュニアが共催された15年のGPファイナルでは、本田真凜(15=関大高)らジュニア選手が浅田のストレッチ、練習などを熱心に目で追い、学んだ。浅田の姿そのものが、何よりの教材だった。

 浅田の代名詞トリプルアクセルも、次世代に受け継がれる。昨年9月、女子史上7人目の成功者となった紀平梨花(14=関大KFSC)は「少しずつ浅田さんに近づいていきたい」。国内の多くの女子選手が、試合で跳べる日を夢見て、この大技に挑み続けている。【高場泉穂】