楽天の田中将大投手を「Googleトレンド」で検索すると、興味深い数字の傾向が出てきた。
本名の「田中将大」で検索する割合と、愛称の「マー君」で検索する割合が、5:1とかけ離れている。32歳。海を渡って舞い戻った大投手に、マー君はもう不釣り合いだな。そんな心理が見え隠れする。
ただ…自身は復帰を機に始めたYouTubeも「マー君チャンネル 田中将大」としている。デジタルでも新聞でも、記事には「見出し」がつく。日刊スポーツは、終始一貫「マー君」で通している。
2006年(平18)の高校全日本合宿。駒大苫小牧のエースは、甲子園でしのぎを削った早実の斎藤佑樹と出会い、共同インタビューで打ち明けた(※1)。
――互いの呼び方を
斎藤 まーくんです。
田中 ゆうちゃんです。
これ以上も以下もないニックネームは浸透し、いつも温かく見守る東北のファンによって定着していった。プロ1年目の07年8月、序盤に4失点しても負けない勝負強さに気をよくした野村克也監督が、小躍りしながらこう言った(※2)。
「マー君、神の子、不思議な子。何点取られるか投げ続けさせたら、天から神が降りてきた。不思議の国のマー君。先祖代々、何かあるんだろうな。そういう星の下に生まれている」
言葉の力をよく知っている名将が、子どもからお年寄りまで、誰にでも愛される存在に昇華させた。
順調に成長した「マー君」に、待ったを唱えた人がいる。星野仙一監督だ。就任早々「もう20歳。りっぱな大人なんだから」と言って続けた。「いつまでも『マーくん』じゃないよ。何か、いいニックネームを考えてくれ」(※3) 。
本人は「自分から『こう呼んでください』とは言えない」と大人の対応をした。「小さなころから呼ばれていたので、違和感がありません」。空気を察した星野監督が「将大」と下の名前で呼ぶようになり、そのまま立ち消えとなった。
マー君はイーグルスで大きく育った。投手としてはもちろん、縁を大切にする人格が東北という土地柄にマッチしていた。
10年の盛夏、球場近くのホールに集うリクルートスーツの学生を見て「絶対に、ダメな人間だとは思わないで。ボクだって楽天に入ったのは縁。縁を大切にすればいい」と話した(※4)。東日本大震災から初めての仙台で完投勝ちすると「僕は楽天に来て良かった。大切なのは入り口でなく、入ってからです。入った所を一番いい場所にすればいい」と言った(※5)。
日本一になった(※6)。海を渡り、ヤンキースの主戦となっても「全然、マー君でいいですよ」とスタイルを変えなかった(※7、8)。震災から10年の節目に、新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない中、ふるさとへ戻ってきた(※9)。
「こだわりたいタイトルは日本一です」。マー君を堪能しよう。【宮下敬至】
(※1)【06年8月28日 田中と斎藤インタ「まーくん&ゆうちゃん」】はこちら>>
(※2)【07年8月4日 野村監督「マー君、神の子、不思議な子」】はこちら>>
(※4)【11年4月30日 震災後、初宮城。田中初登板で勝利】はこちら>>
(※6)【田中は24連勝を「客観的に見ていた」/田中将大1】はこちら>>
(※7)【16年9月16日 宮下メジャー取材 田中「マー君で全然いい」】はこちら>>
(※8)【21年1月31日 2年契約にマー君「腰掛けではない。本気で日本一」】はこちら>>