【DeNA週間⑤ハマの番長引退手記】たくさんの縁が自分を支えた。横浜での25年間は、人生に似ていると思った。

横浜スタジアムで引退手記を受け取ることになっていて、誰もいないプレスルームで会見を見ていました。「ファンへ」の質問で涙が止まらず、鼻をすすりながら「すいません」と謝ったハマの番長。不意打ちを食らい、こちらも涙が止りませんでした。野球を通して培った人生哲学が、これでもかと詰まった秀作。(2016年9月21日掲載。所属、年齢などは当時)

傑作選

三浦大輔

◆三浦大輔(みうら・だいすけ)1973年(昭48)12月25日、奈良県生まれ。高田商から91年ドラフト6位で大洋(現DeNA)入団。97年に10勝3敗、勝率7割6分9厘でリーグ最高勝率。05年最優秀防御率、最多奪三振。15年にプロ野球記録の23年連続勝利。16年には投手最長の24年連続安打。16年引退。通算535試合、172勝184敗0セーブ、防御率3・60。DeNA1軍投手コーチ、同2軍監督を経て、21年から1軍監督。183センチ、88キロ。右投げ右打ち。

通算150勝目は巨人から。絵になる=2012年7月4日

通算150勝目は巨人から。絵になる=2012年7月4日

少女のひと声

こんなところで涙を流しては、と思っていた。会見の最後「ファンへ」と聞かれた。どうして泣く? 自分が信じられなかった。

かわいいファンのおかげで、ハマの番長というニックネームが大好きになった。学生時代、番長と呼ばれる人は確かにいた。ビー・バップ・ハイスクールは好きだったし、リーゼントでもある。でも、当初は「えっ… ちょっと古いかな」と感じていた。

ある時、小さな女の子が「番長~! サインください!」って来てくれた。愛称で呼ばれ、みんなに覚えてもらえる選手は少ない。悪くないな、と思わせてくれた。

大差で負けていても、試合が終わるまでずっと応援してくれる方がいる。2軍にいてつらい時、1軍の試合をテレビで見ると、ファウルの打球を追ってスタンドが映る。すると、18番のユニホームを着ている方がいる。引退の会見を終えて横浜スタジアムに戻ると、土砂降りの中で待っていてくれる方がいる。どれだけ助けられたことか。

ファン感の声援

ドラフト6位。大した選手じゃない。横浜を、三浦大輔を応援して良かった。そう思ってもらえる選手になりたい一心でやってきた。いっぱい支えてもらった。だから正直に言わなくてはいけない。揺れた時もあった。

横浜残留の決め手となった2008年11月23日のファン感。ファンの熱が伝わってくる

横浜残留の決め手となった2008年11月23日のファン感。ファンの熱が伝わってくる

日本一になった98年、あれだけたくさんの方に応援してもらった。年を重ねるにつれ「どこに行ってしまったんだろう」と思うようにもなった。どうしたら横浜が強くなるか。アマチュアの選手が「横浜に行きたい」と思ってくれるか。球団とたくさん話し合いをしていた08年、取得したFA権を行使した。

金額は最初に話しただけ。半分は球団批判のような、疑問点を全部ぶつけた。「行使=出る」ではなかったが、期限までに、残りたいと思える気持ちにならなかった。

当時も言ったが、阪神との気持ちは50%ずつ。悩んでいる最中にファン感謝デーがあった。最後に針を振らせてくれたのは、ハマスタのすごい声援。残るからにはいいチームにしようと誓った

出会いと別れ

横浜での25年間は、人生に似ていると思った。一番勝てた98年と05年でも12勝。打たれたことの方が圧倒的に多いし、覚えている。毎日楽しいばかりの人生などない。

98年の日本一に、今年のCS進出。本当にうれしいことって、何回かしかない。それ以外はしんどくて、悔しい。弱い自分を認めて、武器を増やそうと練習した。

ファンはもがく姿も受け入れ、背中を押してくれた。だからこそ「いいことがあるんだ」と頑張れた。たくさんの出会いと別れにも人生を感じ、その縁が自分を支えた。

盛田幸妃さんの通夜に駆けつけた=2015年10月19日、北海道・鹿部町

盛田幸妃さんの通夜に駆けつけた=2015年10月19日、北海道・鹿部町

盛田幸妃さん(※1)のシュートから強気を学んだ。肝機能障害に、肘と肩の故障。横浜南共済病院の山田勝久院長に、何度も助けてもらった。病を押して、最後の最後までチームを支えてくれた浅利光博さん(※2)。いつも優しい笑顔だった小山昭晴さん(※3)。コントロールが抜群で、引退後も打撃投手として黙々と仕事をしてくれた石田文樹さん(※4)…全員にお礼を言いたい。

※187年大洋ドラフト1位。15年10月、転移性悪性腺腫のため死去(享年45)。

※276年大洋テスト入団。80年引退後は球団職員。チーム統括本部GM補佐・マネジャー統括を務めていた今年9月10日、胃がんのため死去(享年61)。

※378年大洋ドラフト3位。92年引退後は、00年までコーチを歴任した。05年11月、白血病で死去(享年45)。

※488年大洋ドラフト5位。08年7月、直腸がんのため死去(享年41)。

小谷正勝コーチの言葉

恩人とも出会った。プロ1年目に、小谷正勝コーチと出会えたから、ここまでやってこられた。

軸足にじっくり体重を乗せたい理由で、2段モーションのフォームをやってみたいと伝えた。小谷コーチには、自分の意見に耳を傾け賛成し、一緒に技術を追求してくれる懐があった。

初めて完封勝利できた、94年4月22日の広島戦。ピンチの時、マウンド上で言われた。「己を知りなさい。自分はどういうピッチャーなんだ。力んでも150キロは出ないだろ」。

監督就任直後、小谷コーチの自宅で。表情が物語る信頼関係=2020年12月

監督就任直後、小谷コーチの自宅で。表情が物語る信頼関係=2020年12月

己を知る。この言葉が自分の幹となり、いつも謙虚な気持ちにさせてくれた。

引退の理由を「勝てなくなったから」と言ったのも、小谷コーチとの約束があったからだ。

「何年も連続で勝ってるらしいな。じゃあ、頑張れ。でも、誰でもいつかはやめるんだ。勝っているなら続けなさい」と言われた。裏を返せば「勝てなかったらやめなさい」と言っている。勝負の世界の引き際を、教えてくれたのだと受け止めた。

7月にやられ、9月にやられ、納得できた。最後にもう1回チャンスがあるが「いい時期だな」と思えた。そう思えたのは、後輩たちのおかげでもあった。

通算9失策

何年か前から「オレはエースじゃない。他球団にはいい選手がいっぱいいる。こんなオッサン、小さな壁だ。オレが先頭に立ってやる」と言ってきた。刺激にして、負けないつもりだった。

去年まではまだまだ、と思っていたが、今年は若い投手がいっぱい出てきた。CSを決めた19日の試合をベンチから見ていた。「いいチームになった」と感じた。

来年は自分のチャンスがもっと少なくなる。突き上げに押し出されるのは、プロとして健全で、非常にいいこと。寂しさと同じ分のうれしさがあった。

通算9失策。三浦の野球観を示す、すごみのある数字=2012年7月4日

通算9失策。三浦の野球観を示す、すごみのある数字=2012年7月4日

積み上がった数字は長くやってきたからであり、誇れるものはない。ただ、足は遅いけど全力疾走していたから、毎年安打を打てたのかもしれない。全力でベースカバーに走ったから、失策が通算9個と少ないのかもしれない。

野球教室で子どもに教える以上、うそはつけない。自分は弱い。だからこそ、決めたことを貫く。しんどくなってもやる。半端なことはしない。それが三浦大輔の筋だ。

夢 積み重ねを下地に

ファン。先輩、仲間。弱い自分を導いてくれた。どんな恩返しができるのか。今は分からない。勉強していかなくてはいけない。

04年から、横浜スタジアムに来てくれた子どもたちに、グラブをプレゼントしている。13年間で4800個ほどになった。

自分を応援し、プレーから何かを感じてくれた子がグラブをはめて練習し、プロ野球選手になり、横浜スタジアムで再会できたら、こんなにうれしいことはない。(横浜DeNAベイスターズ投手)

近影。DeNA第3代監督としてファンに恩返しする=2022年7月2日

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