テレビ中継で紹介もされなかった無名の男が、柔道界にもたらした確かな足跡とは。柔道金メダリストの高藤直寿と阿部一二三、彼ら2人に請われた無名の柔道家・伊丹直喜の物語「全文/会員版」です。無料の会員登録で読めます。

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東京都文京区春日、柔道の「聖地」講道館。大道場の大きな丸時計は午後5時15分を回っていた。

「放送が終わっちゃうんじゃないかな」。

伊丹直喜は、眼前で繰り広げられる日本柔道史に刻まれていく四肢のぶつかり合いの最中、テレビ東京の中継時間にまで考えを巡らせていた。

2020年12月13日。午後4時44分に「はじめ!」の号令がかかった東京オリンピック(五輪)男子66キロ級代表決定戦。史上初めての一発勝負で、阿部一二三と丸山城志郎が心身を合った。ゴールデンスコア方式の延長戦は20分におよび、総試合時間24分。最後は阿部が大内刈りで、翌夏の金メダルにつながる開始線に立った。

そのコーチボックスに伊丹は座っていた。

丸山陣営には、12年ロンドン五輪100キロ級代表で全日本選手権覇者でもある穴井隆将・天理大監督が構えた。「強く当たれ!」などの張りのある声が中継音声にも乗る。大柄な黒マスク姿がアップ画面で挿入されて、短く説明が入る。ではもう一方は…。

「僕は全国中学生大会も高校総体も講道館杯もでてないですからね」。

一切の紹介はされなかった。卑屈に振り返るのではなく、ただ事実。東海大相模中から同高校、東海大と進学したが最軽量級の選手としての実績には乏しい。テレビ放送枠に収まらなかった緊急事態に、続きを任せたYouTubeでも37万人が同時視聴した試合の最後まで、「誰」か説明されることはなかった。

知られている理由があるとしたら、それは同じく翌夏に60キロ級で金メダリストになった高藤直寿の相棒として。多くの人は彼が何者なのか、知ることはなかった。母国開催のオリンピック代表を懸けた前代未聞のワンマッチ。そこに“無名”の元選手がコーチボックスにいること自体、柔道界では異例のことだった。

 

発祥国として、名選手を輩出し続ける日本柔道。東京五輪でも男女14階級、団体戦で金メダル9個、メダル12個を量産して地位を誇った。その代表選考レースで、前代未聞だった66キロ級代表決定戦。その場で阿部に指示を送っていたのが伊丹直喜(28)だった。なぜ、彼だったのか。そして、その存在が持っていた革新的な意味合いとは。“付き人”という言葉が想起させる古めかしい徒弟制度の枠組みを置き去りに、新たな役割を提示する生き方に迫る。

     ◇     ◇     ◇

「コーチボックスに入れますか?」

真冬の大一番が近づくにつれて、阿部から伊丹への求めは現実味を増していった。

所属するパーク24には、総監督の92年バルセロナ五輪金メダルの吉田秀彦を筆頭に、実績も指導力も十分の面々がそろう。そもそも、19年4月に高藤の「専業付き人」として、異例の契約社員待遇で迎え入れられた身分。日程調整、稽古、トレーニング、試合への帯同など、畳の内外で時間を共有していく存在、その“プロ”として雇用されていた。あくまで対象は高藤。「本当に入ってほしいのなら、しかるべき手続きを踏んでほしい」。だから、そう返していた。

試合の3週間前だった。同じように阿部の専属付き人として入社していた片倉弘貴から電話が入った。「一二三と話し合いました。正式に試合の時についてほしいです」。数日後、吉田から伝えられた。「伊丹、任せたぞ」。異例の抜てきだった。

意図したわけではないが、布石はあった。阿部が高藤を慕っていた関係で、幾度かは酒席をともにしたこともあった。ただ、すでに世界王者になっていた男にものを言える間柄ではなかった。20年4月、阿部の入社が転機だった。少しずつ課題として気になっていた部分を声掛けするようになっていった。阿部の謙虚に話を聞く態度があったからこそで、決して押しつけではなかった。

「阿部の右の担ぎ技の威力は抜群です。ただ、これでごり押しでいけるのは、本当に力の差がある時だけ。本人も気づいていたけど、弱みに付き合うのはすごく難しい。ただ、世界王者になってまで残っていた課題ということは、1人で克服するのは難しいということ。周りも、強い人は自分でどうにかできるだろうと口を出さずに放置しがちですけど、強い人の課題はよりレベルが高いからこそ、放置してはいけないと思っています」。

3度の世界選手権優勝がある高藤との経験から得た知見。王者となったゆえの孤独は、信頼感を支えにした助言こそ必要とする。立ち技から寝技への移行の意識、足技の意図のある出し方など。以前から感じていた「担ぎ技がかけられない時の崩れ幅」を少しでも減らす作業を促していった。

「大変ですね!」。高藤は阿部の支援に回ることを二つ返事で了解してくれた。本業を最優先にしながらも、3週間、時間の許す限りは阿部の稽古を見つめた。もちろん対策は練りに練った。丸山に関しては、小学生時代にはそのすごさを感じ、同じ神奈川県が拠点だった中学時代には対戦経験もあった。「倒すにはどうしたら良いか」「逆に阿部を倒すには」。正式依頼の前から、双方向の脳内試合は盛んだった。

放送枠を気にするほどに落ち着きがあった本番とは裏腹に、その3週間からは食事が喉を通らず、主食がゼリーになり3キロ痩せた。もともと試合前には常に頭の中は柔道で一杯になり、食事も睡眠もまともに取れなくなる。その強度が世紀のワンマッチとなれば加速しないわけはない。直前は睡眠時間1、2時間で、「倒れたら迷惑がかかる」と当日は水がお供。10分に1回のトイレに、試合後の阿部を「先輩が一番緊張してましたね」と誤解させたが、試合が始まれば心は落ち着いた。

1つの分岐点は開始15秒で生まれた。

「(丸山は)いつもと違う事をやってきますかね?」と聞かれたとき、準備段階で明確な答えを示していた。

「肩車だ」

開始15秒、丸山はそれを放った。久々に感じた阿部の圧力に、幾度も反復したであろう技が無意識に出たか。伊丹と阿部の視線が交錯する。確信を共有した。それが一層の落ち着きを2人に与えた。24分後、涙を流しながら2人は熱く抱き合っていた。

     ◇     ◇     ◇

「試合の流れを読みたい」。

それがこの5年、伊丹の命題だった。

そして、なぜ一世一代の決戦でここまで先を読めたのかの1つの答えがここにある。

16年リオデジャネイロ五輪、高藤と臨んだ大会初日の60キロ級は、優勝候補の筆頭でありながら準々決勝で敗れて銅メダルに終わった。トイレで「すみませんでした」と泣き崩れる姿に、言葉を返せなかった。そして、東京へ向けて変化を決断した。分析手法をがらりと変えた。

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「リオは資料として相手の録画映像を見ていた。例えば今日はA選手と決めたら、それを網羅する。時間ごとの技の比率、傾向などをデータベース的に収集することが研究だと思っていた。でも、リオの後はリアルタイムにこだわった。全部終わったものを統計的にみるのと、結果がわからないまま見るのは、使う脳みそが違うと思っています」

現在進行形で頭をフル回転させる。不確定な未来予想を続けることが、「流れ」を読む力を培うと考えた。

リアルタイム-。難しくないように感じるが、内実は違う。国際柔道連盟主催のワールドツアーはほぼ毎週行われ、3日間ほどで男女14階級が実施される。欧州開催なら、日本時間では深夜が続く。時差に抗し、友人からの食事の誘いもほぼ断り、画面に向き合うのが週末のお決まりになった。1会場で多い時には4面で同時進行される。PC、タブレットなどを並べて、頭と目を動かし続けた。

「いつも5個の視点で見ます。各選手、各セコンド、あとは審判。何を考えているか、次の試合までの何時間で、次の相手の特徴をどれくらい伝えるか、もしくは伝えないかなど時間軸にそった思考を鍛えられる」

リオまでの方法では、試合の間の時間も分からない。さらに、一選手にフォーカスしては審判の傾向なども把握できない。少しずつ変わる指導の取り方の傾向なども、大会をリアルタイムで階級問わずに見続けることで感じられるもの。そんな要素が束になっていくことで「流れ」の一端でもつかめるのではないか。

幾度となく自宅で朝日を拝んだ。行く末の1つが、昨冬の講道館だった。

「実際にはスコアは動いてないけど、流れは変わっている。読めるようにならないとだめだと思っていた。セコンドが手伝えるのはそこくらいで、一番のキーポイント。それを1ターンでも読みが遅れたらダメ。読んだ上で、次に自分たちが準備することは何か。『待て』の間に簡潔に伝えないといけない。そのための脳のトレーニング。それがリアルタイムの理由です」

     ◇     ◇     ◇

この夏も、同じだった。

2度目の五輪、高藤の準決勝前に助言したことがある。

「実際に指導は遅い、ただ動きがあるものに対しての指導は遅いけど、膠着(こうちゃく)状態の指導はいつも通りに取っている」

日本武道館でいつものように同時並行で試合を見続けて、指導のタイミングの遅さは感じたが、パターンを感じ取った。一方は消極的だが、一方は技に入ろうとしている、それは取らない。だが、組み合わない場面などは取っている。流れを読むことに秀でた高藤なら、その情報を勝利の道筋につなげていく。その信頼感は言うまでもなかった。

「その思考をなぜすぐに出せたかというと、リオの時もその傾向があったから。準々決勝で負けた試合。攻めていた時に指導がこなくて、思っていたより1ターン目後にやっときた。そうしたらほっとした。それで、その直後に投げられている」

あの時の指導の遅さは審判の資質ではない。基準への感度が足りなかった。特に60キロ級は初日。統計を待っていては遅い。その現実に鈍感だった。だから、ようやくの指導で感情を動かしてしまった。悔恨の一瞬を超えるために、リアルタイムで見続けた日々はあった。

東京の決勝、高藤はゴールデンスコアで相手に3つ目の指導が入り、悲願の金をつかんだ。勝負を決める指導が「早い」と感じる者も多くいたタイミングこそ、膠着(こうちゃく)状態を作り出した組み手に始まる戦略の帰結だった。「あっさり」と感じさせる判断を生み出した2人だけが、必然を感じ取っていた。

     ◇     ◇     ◇

2つの金メダルをともに戦ったいま、伊丹は言う。

「自分が勝たせたという感覚はないです。おこがましい。ただ、自分がやるべき事はちゃんとできたという感覚はめちゃくちゃあります」

その関係性はプロだ。所属先に「専業付き人」としての道を作った時点で、雑用係の意味合いが濃く残る「付き人」という言葉の印象を古くさくした。であるなら、パートナーやパーソナルコーチが当てはまるか。それも違うと感じている。

「少しずつ専業は増えてきていますが、難しいのは全員がやってる仕事は違うということ。技術的な部分を指摘しない関係もある。僕も付き人という言い方はどうなんだろうと思いながら、いままでは『なんでもいい』で済ませていた。ただ、もし自分を第一人者としてくれるなら、これは呼び名や肩書を作っていかないといけないという自覚はある。この立場が広がってほしいといった思いはありませんが、必要性を感じて今後増えてくるのであるならば」

謙虚な本人は声高に振る舞うことは決してないだろう。ただ、その存在は「付き人」周辺を巡るだけで終わるものでもない。現役時代の成績こそが、直結して引退後の指導者道への手形のような現状にあって、その実績の乏しさは1つのマイルストーンになり得る。「名選手、名指導者にあらず」という1つのスポーツ界の格言からいまだに縁遠い柔道界にあっても、もし専業を離れた場合にもその能力を発揮することがあるならば、1つの可能性を提示できる。伊丹が大好きなバスケットボールNBAで、競技実績がない映像分析班が昇格し、ヘッドコーチとして手腕を振るう場面があるように。

あの24分間は日本柔道史に刻まれる死闘であった。だが、それだけではない。選手とともに戦っていた無名で、流れを読むことにかけた男がいたという価値も、後世、その歴史に刻むべき画期的な史実として加わるかもしれない。

9月24日、東京後初にしてパリへのレースが始まるワールドツアー、グランプリ・ザグレブが始まった。また、伊丹が脳みそをフル回転させ続ける夜がやってきた。【阿部健吾】