22年北京冬季五輪の最終選考会となるフィギュアスケートの全日本選手権は23日、さいたまスーパーアリーナで開幕する。日刊スポーツでは「さいたま最終決戦~北京への道~」と題し、女子3枠を狙う3選手の歩みをひもとく。

最終回は初出場を目指す樋口新葉(20=明大/ノエビア)。ジュニア時代から脚光を浴び、苦難も知って、今がある。トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)に新たな心境も携え、挑む。

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焦っているという。

11月21日、フランスのグルノーブルで樋口は、包み隠さない本音で、記者に向き合っていた。

「前の時よりも全然、まったく逆で、全然近づかない感じがあるので、それがすごく危機感みたいなのがあって。それがモチベーションになっています」

10月のスケートカナダでは国際スケート連盟公認大会で初めて3回転半を決めた。この前日のフランス杯でのフリーでも着氷させ、自己ベストの141・04点をマーク。北京へ視界良好? そんなこちらの臆測はあっさりと否定された。ただ、決して後ろ向きな感情に支配された「危機感」ではなかった。

「前の時」とは、18年平昌五輪を目指していた頃。当時16歳は、GPシリーズは2戦連続表彰台に上り、ファイナルにも出場した。初の五輪は近づいている感覚に満ちた。ただ、肝心の全日本選手権ではジャンプミスに、大会中のケガも重なり4位。2枠に入ることはできなかった。いまは正反対。近づかないからこそ、士気は上がる。

4年前にはなかった武器は手にしている。3回転半は苦節7年間の恐怖心との戦いの結晶。

「怖いです。練習でうまくはまらないでこけてしまったり、外れてしまう時にケガをしそうになる。それは怖いです。気合で、乗り切るしかない」

ジュニア時代から取り組み始めたが、コンスタントに練習で挑み始めたのはここ数年。跳びたくても体が許さない時期も過ごした。膝のケガである鵞足(がそく)炎を患った。

「歩くのもつらく、走るのも痛いし。ほぼ何も出来ないことが続くんですけど、その中でアクセルはももを挙げたりするので結構ひざに負担はきました」

足の甲の疲労骨折や腰痛で、欠場を余儀なくされたこともあった。そんな負の連鎖から脱却したのが、いまだ。

「ケガをしづらい体になったというのが一番大きい。毎回毎回ケガをするたびに、すごくいろんな事を覚えて、しないケアをたくさんしてきている。ジュニアの頃より骨もしっかりしてきたのは大きいかな」

例えば、足の指でタオルを足でつかむ、裏をボールで転がす。筋肉をゆるませて、防止に努める。

4年前にはなかった競技への思いも生まれた。平昌を逃した直後、ツイッターに「これから倍返しの始まりだ」と書き込んだ。いま問われると…。

「目標設定が結構変わってきている。4年前は勝ちたいことにすごくこだわりを持っていたので、勝てないと意味がないみたいな…」

負けた悔しさだけを当時の人気テレビドラマの決めぜりふに乗せた自分は、もういない。

「いまはどういう風なスケートをして、どういう風に観客とつながれるか、そこがスケートの楽しいところだと感じている。この曲に対してどう表現するかをすごく理解しながら試合はできているので。4年前に言っていることとは考えが違うかもしれないですね」

何を表現したいのか。過去の自分のプログラム映像を見て、当時の心境を再確認することも多い。当時はジャンプに集中し過ぎていた姿を見ることで、逆にいま何を見せたいのかを心に落とし込む。

「すごく昔といまで違うのは、いまのほうがトランジションや表現で、すごく、努力はしているので。そこに昔のようなスピード感を合わされば、もっと勢いに乗って良いプログラムになるんじゃないかなと思います」

たけだけしさを感じさせるフリー「ライオンキング」も、さらに深化できると確信がある。だから、焦る。そして、それを良しとする。北京への最終決戦。そこでも望むのは同じ。

「もっと観客とつながれる演技を」

【阿部健吾】(おわり)

 

◆樋口新葉(ひぐち・わかば)2001年(平13)1月2日、東京都生まれ。3歳で競技を始めて4歳で明治神宮外苑へ。以来、岡島功治コーチに師事する。開智日本橋学園中高から明大。商学部3年。14年ジュニアGPファイナルと15、16年世界ジュニア選手権3位。平昌五輪を逃した後の18年世界選手権で銀メダルに輝く。全日本は15、16、19年の2位が最高成績。名前の由来は、新世紀が始まる日に新宿で生まれたことに由来。趣味は映画観賞など。152センチ。血液型A。