ノルディックスキー複合女子でワールドカップ(W杯)優勝経験のある中村安寿(26)が、ジャンプに転向した。
30年フランス・アルプス五輪出場のための決断。26年ミラノ・コルティナ五輪で女子の採用が見送られ、心身を病んで長期休養するも、4月からCHINTAI入りし、新たなスタートを切った。一時は目標を失ったトップアスリートが、再起するまでの道のりとは-。【取材・構成=保坂果那】
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中村がジャンプ選手としての人生を歩み始めた。もともとクロスカントリースキーに取り組んでおり、東海大札幌高1年からジャンプにも挑戦。複合選手となり、22年3月のW杯で優勝。日本女子のエースとして結果を出していたが、ジャンプへの転向を決めた。「4年後の30年冬季オリンピックに出場して、結果を残す」と覚悟を見せる。
22年6月に国際オリンピック委員会(IOC)がミラノ・コルティナ五輪での複合女子の採用を見送った。女子は20-21年からW杯を開催し、26年の五輪採用を見据えていた。社会人1年目だった中村は「26年には確実に正式種目になると思ってやってきたのに、決まらなくて。大号泣して、未来が見えなくなった。目標を見失った」と振り返る。複合女子でW杯表彰台5度のアンニカ・シエフ(イタリア)も、自国開催の五輪出場を果たすためにジャンプに転向した。「辞めちゃった子もいる」と残念がる。多くの複合女子選手の人生を動かした。
それでも中村はW杯や世界選手権での活躍を誓い、競技を続けるも、体調に変化が訪れる。「病院で『あなたはうつ病ですね』と言われたのは24年10月末」。夏の時点でジャンプのスタート台で頭が混乱することが何度もあった。食事をするのも、トイレに行くのも、人と話すことすら「めんどくさい」となり、一日中横になった。体重は5キロ以上痩せた。医者からの指示でスキーの道具を目に入らない場所に隠した。当時飼い始めたシバイヌのみつまる君だけが心の安らぎだった。24-25年シーズンは試合から離れて休養した。
25年春から徐々に外出するようになり、体を動かし始めた。落ちた筋肉を必死に取り戻した。小さな台から始めたジャンプ練習は楽しかった。だがクロスカントリー練習のローラースキーには、乗ろうとしても体が拒絶反応を示した。7月のサマージャンプ朝日大会から試合に復帰。いきなり9位に入った。「試合に出られた達成感があった」。ジャンプ一本で戦っていく覚悟が決まった。クロスカントリーのスキーにはどうしても乗れず、24年から一度も滑っていない。
兄直幹(フライングラボラトリー)は2大会連続で五輪に出場。ずっと背中を追ってきた存在だ。「一番尊敬するのが兄。五輪に向けて頑張る姿を見てきた。それだけ人を成長させる大会」と感じる。より五輪へのあこがれを募らせる。
複合では世界のトップに立ったが、ジャンプ界では一からのスタート。W杯に出場するために下部大会でポイントを獲得する必要がある。CHINTAIでは、競技と業務の両立を目指す。自らがその道を選んだ。サポートを受けながら4年後の夢舞台へ突き進む。「オリンピックを目指すではなく、出場する前提で」と気持ちを高める。
◆中村安寿(なかむら・あんじゅ)2000年(平12)1月23日、札幌市生まれ。5歳から距離(クロスカントリースキー)を始める。札幌大倉山小、札幌宮の森中をへて東海大札幌高1年から複合に転向。東海大3年の20年12月W杯デビュー。22年3月ショーナッハ大会で優勝。表彰台3度。世界選手権は2大会出場で個人ノーマルヒル21年4位、23年7位。家族は両親と兄、弟。


