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今日の誕生日

山本草太(2000年)→Pick Up!

青木祐奈(2002年)→21年Pick Up!(最終項にリンクあり)


Pick Up! 山本草太

2月の北京オリンピック(五輪)を目指したスケーターが22歳になりました。

競技を始めたのは6歳。06年トリノ五輪で優勝したプルシェンコにあこがれ、大阪府内のスケートセンターに連れて行ってもらったのがきっかけでした。

中学1年の時、ジャンプ指導に秀でた長久保裕コーチに教えを請うため、母と2人で名古屋へ移住しました。邦和スポーツランドを拠点に14年のジュニアグランプリ(GP)ファイナルでSP首位発進。試合では初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決めて、当時のジュニア世界最高スコア(76・14点)を記録しました。

当時、長久保コーチは「結弦とダブる」と小学校6年まで仙台で教えていた羽生結弦を引き合いに出したほどです。「ひょろっとして弱々しいけどジャンプは跳べちゃう。才能ですね」と将来を楽しみしていた。

期待通り、15年は全日本ジュニア選手権を、16年はリレハンメル・ユース五輪で金メダルを獲得するなど階段を上りました。

順調な経歴が暗転したのは16年3月でした。世界ジュニア選手権に移動する当日、練習中に右足首を骨折したのです。出場辞退はもちろん、長期間のリハビリを余儀なくされました。同5月から氷上練習を再開したものの、夏には右足のくるぶしを疲労骨折。2度の骨折と3度の手術をへて、ようやく復帰できたのは17年9月でした。中部選手権から。すべてのジャンプを1回転とする構成から、再起の道を歩み始めました。

18-19年シーズンは初戦のアジア杯で3年ぶりに競技会での優勝を飾り、構成も難度を増していきます。11月のNHK杯でGPシリーズ初参戦。6位。19-20年シーズンは4回転サルコーを組み込み、自己ベストも更新しました。

回復を実感してきた中、また苦しい時期を過ごすことになったのは20-21年シーズンでした。全日本選手権で9位にとどまり、年明けの愛知冬季国体ではショートプログラム(SP)18位と低迷。その後も長く滑る場所を転々としました。

また光が差した-。それは昨夏でした。グランプリ東海クラブに移籍して練習環境が整ったのです。20年の全日本選手権後、半年以上も拠点が決まらず1人で滑る日々を過ごしました。その中で縁あって、浅田真央さんらを育てた山田満知子、樋口美穂子の両コーチに師事することが決まりました。昨季は休学して大阪へ。今季はまた名古屋へ。移動の負担も減り「やっと落ち着いた。心技体そろえてくださる環境」で復活を果たしました。

樋口コーチの指導などでジャンプも4回転サルコーなど安定。GPシリーズ第2戦スケートカナダ7位、第4戦NHK杯で5位と世界ランキングにつながるポイントを稼ぎ、チャレンジャーシリーズ(CS)ワルシャワ杯では合計247・65点の自己ベストで優勝を遂げました。上り調子で、目指す北京五輪の代表最終選考会を兼ねた全日本選手権(昨年12月、さいたまスーパーアリーナ)へ進みました。

迎えたSP。ノーミスの93・79点で4位と好位置につけます。「最後の気合が得点につながった。自分らしい演技ができた」。練習の充実が、そのまま結果に出た形です。フリー。4回転ジャンプにミスが相次いで、まさかの12位。総合8位に沈みました。

「今は言葉が出ない」

SPより回数を重ねてきたというフリーでも、まだまだ課題がありました。4年に1度の勝負だっただけに落胆しました。それでも年明け4日の名古屋フェスティバルでは「今年も頑張ります」。2日後には北海道・帯広で行われた日本学生氷上選手権(インカレ)で初優勝し、まだまだ闘志は衰えません。今季も成長を信じて滑ります。


今日の1枚

日刊スポーツが蓄積してきた写真の中から厳選して紹介します。

2021年11月14日
2021年11月14日

21年11月14日、NHK杯エキシビションで演技するアナスタシア・ミーシナ、アレクサンドル・ガリアモフ組(撮影・菅敏)。

あの日のフォトギャラリーはこちら


プレーバック

オリンピック(2006年トリノ五輪)

15位も温かい拍手…安藤美姫が大舞台で4回転ジャンプに挑戦

夢の半分は4年後に持ち越された。

安藤は最初のビールマンスピンを終えると、緩やかな孤を描いて4回転ジャンプの軌道に入った。鋭く空中で3回転以上回ったが、降り立つ右足がこらえ切れずに尻もちをついた。

「降りられるかと思ったけど、甘かったです」

ただ、勇気ある挑戦に場内の拍手は温かかった。

初めて、プログラムの最初に4回転を持ってきた。これまではいつも連続ジャンプが最初だったが、失敗すると弱気になって4回転挑戦を回避していた。「最初にトライすれば、勢いに乗れる」。年明けからキャロル・ヘイス・ジェンキンス・コーチに本格的に習っていた。「4回転キング」と言われたティモシー・ゲーブルを育てた名伯楽。「腕をしっかり前で組んで、体を上に持ち上げるようにして跳びなさい」と、回転速度を増す跳び方を教わった。成功率は徐々に増していた。

ただ、4分9秒の「蝶々夫人」をかけた通し練習では1度も成功していなかった。想像以上に体力を奪われる大技の失敗は、後半に響いた。予定した2度の連続ジャンプはいずれも1度目で失敗。3回転ジャンプでは、よろけてフェンスに手をついた。「4回転で力尽きました。足が疲れて」とため息をついた。

骨折していた右足小指のけがは、完治していなかった。「本当のことを言うと完治していません。骨はくっついているけど、跡が残っている。薬をのんで、痛みを抑えているんです」。終始笑顔で終わった会見と異なり、会場外で母明美さんの顔を見ると大粒の涙が頬を伝った。不安と苦しみからの解放と、悔しさ。18歳の少女は、夢舞台だった最初の五輪を終えた。

かつて、トリノ五輪後は「結婚して子供を産みたい」と夢を話していた。だが今は違う。2度目の五輪となった荒川から「1度目と2度目は全然違う」と聞かされ「ちょっと味わってみたいな」。来季も、新しく変えたばかりのフリーのオペラ「蝶々夫人」を使う。4年後の10年バンクーバー五輪へ、安藤が再び前を向いた。


今日の出来事

米データ分析会社が平昌五輪の各国メダル予測。日本は金4個(2018年)

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