プロボクシング元WBC世界ライト世界王者のガッツ石松さん(73)は、第2の人生でも人気タレント、俳優として成功を収めた。
ボクサー時代は11度の敗戦を糧にして世界王座を奪取。5度防衛に成功して、1970年代に一世を風靡(ふうび)した。
引退後はNHK連続テレビ小説「おしん」などでの演技が高く評価され、80年代以降に個性派俳優として確固たる地位を築いた。
なぜボクシングと芸能界という、まったく異なる2つの世界で頂に立つことができたのか。世界王座奪取から49年となった今年4月、都内でご本人にじっくりと話を聞いた。昨年6月の取材時の証言も合わせて、挫折と栄光が交差した波瀾(はらん)万丈の半生を【ガッツ石松という伝説】と題して連載する。最終回の第5回は「スピルバーグ監督の面接もパス。世界王者が個性派俳優として大成した理由」。
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現役を引退したガッツ石松が、第2の人生に選んだのは俳優だった。元世界王者の看板と知名度があれば、ジム経営など日の当たる道を歩むことができる。しかし、あえてボクシングの実力や実績などまったく通用しない世界で、再び「4回戦ボーイ」からチャレンジすることを決意した。
「ジムをやることも考えたけど、ボクシングの元チャンピオンなら誰でもやれることでしょう。自分は誰もできないことにチャレンジすることが好きなの。どこまで通用するか分からなかったけど、今度は俳優として、もう1度、世間に認められるような存在になりたいと思ってね」。
未知のものへの挑戦は、ガッツ石松という人間にとって、生きることそのものだった。
実は現役の世界王者時代に、防衛戦の合間を縫って俳優との「二刀流」を経験していた。世界王座を奪取した1974年(昭49)に渡瀬恒彦主演の「極悪拳法」で映画初出演。75年には「神戸国際ギャング」(ともに東映)であこがれだった高倉健や菅原文太と共演した。
「高倉健さんや菅原文太さんら多くの俳優さんと共演させてもらって、俳優業の難しさ、奥深さを感じてね。厳しい世界だけど、その分だけやりがいのある仕事だと思って、どうせやるんだったら、自分も俳優としてやっていこう、そのためには耐えて、我慢しなければダメだと思ったよね」。
引退後に事業家としてスナックやクラブ、すし店やラーメン店などを次々と開いたが、すべてうまくいかず、億単位の赤字を抱えた。この失敗で俳優業に本腰を入れて取り組む覚悟もできた。
「いろんな商売をやったけど、事業は人任せなので売り上げも自分には回ってこない。金だけかかってね。もうこれ以上やってもダメだと踏ん切りをつけたの。俳優は自分1人の力でできるでしょう。だから俳優1本でいこうと決心したんだよね」。
「世界王者」の金看板で、現役時代はメディアから引っ張りだこだった。映画をはじめ、日本テレビの人気バラエティー番組「うわさのチャンネル」やドラマなど出演オファーが殺到した。それが引退後に一転する。当然だが現場では新人扱いで、あいさつをしても無視されることも珍しくなかった。役者の仕事も思うようには巡ってこなかった。4~5年は忍耐の連続だった。
「ボクシング界とは違う世界なんだから、この世界では1年生なんだからと、ぐっと我慢してね。世界チャンピオンのプライドは腹にしまって、表に出すことはなかった。いつも低姿勢でね。でも引き受けた仕事はとにかく一生懸命にやった。通行人の役でも自分なりに役柄を真剣に考えてやったよね」。
理不尽をぐっと耐え、オファーがあれば汚れ役でも何でも引き受けた。演劇の舞台にも上がった。営業で全国のキャバレーもめぐった。芸能界でいろんな経験を積み、地道な努力を重ねながら、俳優とは何かを学び、演技力を磨いていった。
「演技はあまりやりすぎるとだめ。まず脚本を読んで、自分がこの映画やドラマの中で、どんなポジション、役回りなのかを考えるんだね。野球だってセカンド、サード、ショートと持ち分、持ち味があるよね。ショートがセカンドまでいって守ったらだめでしょう。全体を見て自分の役割を把握すれば、いいチームになる。俳優も同じなんだよね」。
「セリフはとにかく練習したね。ばかにされたくなかったから。そこはボクシングと同じで練習が大事なの。自分は現役時代に完全に納得するまで練習してたから、セリフも納得できるまで必死に覚えたね。栃木なまりをとってくれと言われたけど、なまりはなかなか取れなくて。『これもガッツ石松の芸風だ』と言ったりしてね」。
80年代に入ると俳優ガッツ石松の個性的な演技が、次第に周囲から認知されはじめた。82年に倉本聰脚本のTBSドラマ「ガラスの知恵の輪」で、主演の大竹しのぶの兄役を好演すると、83年には年間視聴率52・6%を記録した橋田寿賀子脚本のNHK朝の連続テレビ小説「おしん」に出演。田中裕子演じるおしんを助ける香具師(やし)の親分役で、個性派俳優として確固たる地位を築いた。
「『おしん』は橋田寿賀子さんが私のことを想定して、脚本に役をつくってくれたんだよね。倉本聰さんもそうだけど、ガッツ石松の俳優としての個性を見て使ってくれたんじゃないかな。『おしん』はアジアでも放送されて、中国に行ったらみんながオレの顔を見て『アシン、アシン』と指さしてね」。
「おしん」出演後は、オファーが殺到した。ボクシングに続いて、ついに俳優でもチャンピオンになった。活躍は国内にとどまらなかった。87年には世界的な巨匠スティーブン・スピルバーグ監督の米映画「太陽の帝国」で日本軍の軍曹役を好演。89年にはリドリー・スコット監督のアクション映画「ブラック・レイン」にも出演した。
「『太陽の帝国』はスピちゃんの面接を受けて出演が決まったの。彼は私がボクシングの世界チャンピオンだったことも知っていて、ちゃんと情報を集めているんだよね。やっぱり世界のスピちゃんだけありますよ」。
平成に入ると芸能界挑戦を決意した時からの夢だった映画の製作も実現させた。90年10月公開の「カンバック」で、自ら企画、脚本、監督、主演など1人6役を務めた。製作費がかさんで、2億円を超える借金を背負ったが、それも次の仕事へのモチベーションに変えて完済した。悔いはなかった。96年には衆院選に出馬して落選する憂き目にもあった。
「商売をやって全部つぶしたし、映画で借金も背負った。選挙にも出て、また何億と借金してね。でも、ふつうは想像を超えた逆境に直面すると、どんどん崩れていくのが人間だよね。でも私は何かあると、それを糧にして乗り越えてきた。人生、忙しかった。お金も忙しかった。でも、だいたいやりたいことはやってきたよね」。
6月5日に74歳になるガッツ石松の栄光の人生には、敗北や大失敗がたくさん詰まっている。しかし、どんな時も泣き言を言わず、力の限り生きてきた。だからこそチャンスをつかみ、ボクシング界と芸能界というまったく違う世界で高みを極め、輝くことができたのだろう。
「自分は何か起きるたびに、それが人生の転機になってきた。田舎から出てきて、たまたまヨネクラジムに入って、世界チャンピオンになって、俳優になってからも、節目節目で自分を認めてくれた人たちとの出会いがあった。『人間万事塞翁(さいおう)が馬』じゃないけど、自分は運がよかった。人間は一生のうちに会うべき人には必ず会えるんだね。それも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない方がいい」。
きっと、これがガッツ石松が激動の歳月を経てたどりついた境地なのだろう。胸を張って語り継ぐことのできる半生である。【首藤正徳】(敬称略)(終わり)
◆ガッツ石松(いしまつ)本名・鈴木有二(すずき・ゆうじ)。1949年(昭24)6月5日、栃木県粟野町(現鹿沼市)生まれ。66年12月プロデビュー。72年東洋ライト級王座獲得。74年にWBC世界ライト級王座獲得。5度防衛。戦績は31勝(17KO)14敗6分け。79年に引退後は個性派俳優として活躍。NHK朝ドラ「おしん」や米映画「太陽の帝国」「ブラック・レイン」などでハリウッドにも進出。08年に鹿沼市民栄誉賞受賞。流行語になった「OK牧場」などユニークな語録でも知られる。






