フィギュアスケート男子バンクーバーオリンピック(五輪)銅メダリストで14年に引退した高橋大輔さん(32)が1日、競技会に復帰すると発表し、午後8時半から会見を行う。

 引退発表会見を行ったのは4年前、14年10月14日。日刊スポーツではその直後に「感動をありがとう高橋大輔」と題した特集号を制作し、数々の偉業をたたえた。当時担当していた記者によるコラムをここに再掲載し、その功績を振り返る。

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 「彼女」ではなく、「彼」だった。

 高橋大輔、希代なる表現者としてフィギュアスケート界に「男性」がいることを知らしめた存在。それはスポーツという大きな枠組みにとっても、革新的な発見だった。

バンクーバー五輪フィギュアスケート男子フリー 表彰台で、銅メダルを手に笑顔を見せる高橋大輔氏(2010年2月18日)
バンクーバー五輪フィギュアスケート男子フリー 表彰台で、銅メダルを手に笑顔を見せる高橋大輔氏(2010年2月18日)

 ジャッジ、観客へのアピールで順位が決まる採点競技なら、多々ある。ただ、音楽を背景に体で何かを表していくスポーツとしてなら、シンクロナイズドスイミング、体操など。限られる上に、その競技者は「女性」であることが主だ。例えば、体操の床運動には女子は曲がかかるのに、男性は無音。演じる男はスポーツ、特に五輪競技からはマイノリティーの域にいた。フィギュア界でも、男性はジャンプなどの高度技術を見せる存在という考えは色濃い。ただ、あくまでも背景として鳴る音楽に対し、誰よりも向き合って融合してしまい、氷上で踊れてしまうのが高橋だった。そして、その歩みが日本男子、ひいては世界の動向をも動かす道となっていった。

 10月14日、地元の岡山県内での引退会見。

 「どんな曲にも、曲の雰囲気を醸し出す。曲そのものになる。細かい点を拾わないルールに変わり、細かい表現や、音を拾ったり、感情を出すのが二の次になっている現状でも、スポーツと芸術の融合をみせてくれる数少ない選手だった」。

 中学校2年から指導した長光歌子コーチは、そう賛辞を送った。

ィギュアスケート全日本選手権最終日 クールな表情でやり直しの表彰台に立つ優勝の高橋大輔氏(左)と2位の織田信成(2005年12月25日)
ィギュアスケート全日本選手権最終日 クールな表情でやり直しの表彰台に立つ優勝の高橋大輔氏(左)と2位の織田信成(2005年12月25日)

 「見せること」の原点は8歳のリンクにあった。自宅近くにスケート場ができ、習い事が長続きしなかった少年はとりこになった。楽しかったこと-。それは「両親が楽しそうな顔をしている。自分がこうというよりも周りの方が喜んでいる」ことだった。4兄弟の末っ子は氷の上からリンク脇にいる父、母に向けて目いっぱいの躍動をみせた。そして、その笑顔を何よりも求めた。

 その対象はいま、コーチに代わり、ジャッジに代わり、そして何よりファンに変わった。

2006年トリノ五輪の高橋大輔さん(AP)
2006年トリノ五輪の高橋大輔さん(AP)

 「自分を強引に通すのでなく、それを受け入れてというスタンスは常々にあって。人からいろいろなことを吸収しようと思ってやってきたのかな。コミュニケーションを大事にして、1つになることを心がけてきた。それもこだわりより、自然に。自分の性格なのかな」。

 引退会見で、「自然」にそんな言葉が漏れた。音楽と、見ている人と「1つになる」こと。それが「曲そのもの」になることだった。ヒップホップ調の「白鳥の湖」から、ブルース、タンゴ、正統派のクラシック、そして最後のシーズンを戦った「ビートルズメドレー」のポップスまで、彼が曲だった。

バンクーバー五輪フィギュアスケート男子フリー 気合を前面に押し出し、激しくリンクを舞う高橋大輔氏(2010年2月18日)
バンクーバー五輪フィギュアスケート男子フリー 気合を前面に押し出し、激しくリンクを舞う高橋大輔氏(2010年2月18日)

 「見ている皆さん、一人一人に感じてもらえれば」。プログラムの見どころを聞くと必ずそう返された。一見すれば主体性のなさとも取れるその言葉は、際限なき利他性と紙一重にあった。常に主体は客体にあった。誰よりもファンの歓喜を願った。その源流は両親が見つめた倉敷の小さなリンク。だからこそ、表現者として誰にも到達できないような域に達していった。

男子SPで華麗に演技する高橋氏。86・40の得点で4位につけた(撮影・井上学)(2014年2月13日)
男子SPで華麗に演技する高橋氏。86・40の得点で4位につけた(撮影・井上学)(2014年2月13日)

 その信条は、ソチ五輪でのトラブルでも現れていたように思える。ショートプログラムの使用曲「バイオリンのためのソナチネ」に作曲者偽装問題が起こった。集大成の舞台に挑む直前での突然の混乱。ただ、ソチに到着した高橋は「勘弁してくれよ、と思いました」と苦笑いで本音を漏らしながら、選曲は替えなかった。どの作曲者の手による産物かはかまわない。ここでも自己主張をせず、「板挟み」になった曲のことを考えるように、救いの手を差し伸べるように、それと1つになることを目指していた。ファンのため、と同じように、曲のために。

得点を待つ高橋氏。結果は6位入賞だった。右はモロゾフ・コーチ(撮影・井上学)(2014年2月14日)
得点を待つ高橋氏。結果は6位入賞だった。右はモロゾフ・コーチ(撮影・井上学)(2014年2月14日)

 そのソチ五輪、順位こそ6位に終わったが、フリーの演技では最後まで高橋は高橋だった。芸術性などを評価する演技構成点は5項目のうち4つで9点台をマーク。それはパトリック・チャン(カナダ)に次ぐ点数だった。誰よりも見ている人のことを考えたスケーターの滑りは、しっかりとその対象者に届いていた。

 07年、名古屋で開かれた全日本選手権の景色が高橋には忘れられない。華やかな女子、特に数多くのスケーターを輩出する名古屋で、男子は「おまけ」だった。

フィギュアスケート全日本選手権・2日目・男子フリー 優勝した高橋大輔氏は重そうにトロフィーを持ち、ウイニングラン(撮影・田崎高広)(2007年12月27日
フィギュアスケート全日本選手権・2日目・男子フリー 優勝した高橋大輔氏は重そうにトロフィーを持ち、ウイニングラン(撮影・田崎高広)(2007年12月27日

 「女子が終わって、男になると人数ががらっと減って悔しかった。あればモチベーションになって頑張ってこれた」。

 いま、名古屋のファンでさえ「彼女」でなく「彼」を追う。それは高橋だけでなく、小塚崇彦、町田樹、無良崇人、羽生結弦…。悔しさを糧に表現し続けた偉大な先輩が作った道を、しっかりと後輩たちは歩んでいる。長光コーチはその功績を「ジャンプばかりではなく、スケーティングや表現力も高められ、欧米に負けない日本男子フィギュアのスタイルを確立できた」と評する。「彼」は「彼ら」になり、日本だけでなく世界の「彼ら」になった。

 今年、世界スケート連盟は男女シングルの演目にボーカル入りの曲を解禁した。意図をくめば、より表現面を重視していく改正と取れる。ファンは「今年、もし高橋大輔が滑っていたら、どんな演技をみせてくれるだろう」と想像してしまうかもしれない。ただ、その名残惜しさこそ、世界が傾いていくだろう「見せること」の先駆者として走ってきた高橋が作ってきた道そのものに違いない。

「彼ら」が滑り踊るなかに、奉仕者として滑り続けてきた「彼」は生き続けていく。【阿部健吾】