【中日週間②権藤博の12日】☂権藤☂移動、権藤☂移動、権藤☂☂移動、権藤「中日には権藤しか…」おらん!/物語のあるデータ④
梅雨どきの試合はやっかいです。ドーム球場が増えたとはいえ、中止はあるし、ときに雨中の戦いも強いられます。「権藤、権藤、雨、権藤」。不朽の流行語が生まれたのは梅雨の真っただ中、1961年(昭36)7月のことでした。この年、中日に入団した権藤博が先発、抑えにとフル回転しました。(敬称略)
ストーリーズ
米谷輝昭
▷川上哲治監督の初陣にデビュー
権藤は開幕戦からいきなりベンチ入りした。チームが1点を勝ち越した9回、ブルペンに走った。同年の4月8日、後楽園の巨人戦だった。
今年、巨人の抑えとして大活躍しているルーキー大勢も、開幕からブルペンで待機。初登板してセーブを挙げた。権藤に出番はなく、デビューは翌9日のダブルヘッダー第1試合の先発に持ち越された。
この年の巨人は、川上哲治監督の就任1年目。米ベロビーチでキャンプを行っての出陣だった。そんな相手に初先発した。
立ち上がりの1回2死後、プロ4年目の長嶋茂雄に強烈な二塁打を浴びた。ルーキーは動じない。快速球に、当時ドロップと表現された落差の大きいカーブを交え、つけ入るスキを与えなかった。被安打8、三振6の1失点で完投勝利を挙げた。
◆権藤博(ごんどう・ひろし) 1938年(昭13)12月2日、佐賀県生まれ。鳥栖―ブリヂストンタイヤを経て61年中日入団。1年目に35勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、新人王、沢村賞。61年のシーズン429回 1/3 はセ・リーグ記録。65~67年は三塁、遊撃手としてプレーした。68年、投手に復帰して引退。中日コーチなどを歴任し、98年に横浜の監督に就任して1年目に日本一。17年WBCでは日本代表投手コーチ。右投げ右打ち。
▷語源は…巨人堀本律雄の嘆き
球宴までの前半戦で34試合に登板し、17勝(9敗)を挙げた。その球宴前、巨人堀本律雄が、記者相手にこうもらしたという。「中日は権藤しかおらんのか。権藤、雨、旅行日、権藤、雨、権藤や」。
7月11日、2人が対戦した試合前のひとことだった。これがリズミカルに短縮され、世に広まった。堀本は前年に29勝を挙げ、新人王に輝いた右腕。権藤のデビュー戦の相手でもあった。
試合は2-1で堀本が完投勝ちした。6月後半から連日のように雨が降り続く中、中日の先発投手は堀本の言う通りだった。
6月24日、権藤は1失点で大洋に完投勝ちすると、7月1日には同じ大洋を完封した。この「中6日」は雨天中止が4試合、残る2日間は移動日だった。
2日には西尾慈高、3日には板東英二が先発したが、4日からは権藤の「独り舞台」になる。
雨、権藤、雨、移動日、権藤、雨、移動日、権藤、雨、雨、移動日、権藤と進んだ。4試合に登板して完封勝ち1、完投勝ち1、敗戦2。この12日間の中日の先発投手は、権藤1人しかいない。
開幕から1カ月余が経過した5月9日。権藤は国鉄(現ヤクルト)を完封すると、翌日もベンチ入りを命じられた。
初めてのことだった。救援で登板し、延長の末に敗れた。試合後、宿舎に帰ると、濃人貴実監督に呼ばれた。「稲尾(和久=西鉄)も、杉浦(忠=南海)も、今日のように(連投で)投げている。これからも頼む」。フル回転指令だった。
▷稲尾和久と同等
このときの権藤は、驚くより、稲尾と同じ扱いといわれて喜んだという。アマ時代(鳥栖-ブリヂストンタイヤ)にあこがれ、投球フォームまでまねた投手が稲尾だった。
当時は日曜日などにダブルヘッダーが組まれた。権藤は、フル回転指令が出た直後から1日2試合の「ダブル登板」を4度記録している。
8月27日の阪神戦(甲子園)では、第1試合に被安打7の2失点で完投勝ち。第2試合は、救援で2回 1/3 を2安打無失点に抑えて2勝した。逆に9月17日には同じく完投、救援しながら1日2敗を味わった。
▷肩を温め第2試合へ
今、登板を終えた投手は少ない投球であっても、必ずアイシングして肩やヒジのケアを行う。当時の権藤は第1試合の登板を終えると、シャワーを浴び、温めてから第2試合に備えたというから驚かされる。
アイシングによるケアは1980年代、ヤクルト、横浜などが米キャンプを行った際にメジャー球団から学び、日本に持ち帰った。権藤のプロデビューは、20年ほど早かったのかもしれない。
シーズン130試合制だったこの年、権藤は半数以上の69試合に登板した。35勝19敗、防御率1・70。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振(当時は表彰なし)、新人王、沢村賞と投手タイトルのほとんどを手中にした。
ちなみに最多セーブのタイトルは1974年から。この年の権藤にセーブが記録される条件を当てはめると、7セーブを稼いだことになる。
▷35勝&30勝 強烈な輝き
2年目も30勝を挙げ、連続最多勝に輝いた。もっとも開幕から肩、肘に不安を抱え、相手と戦う前に、自分の体との闘いになっていた。
1年目の登板過多がそうさせたのだろう。権藤は後年「投げすぎがよくなかったんだろうが、それでつぶれたとは思っていない」と語っている。
1年目のオフ、権藤は休養につとめた。温泉を訪れることはあっても、練習やトレーニングは一切しなかった。それが逆に災いしたのでは、というのが本人の解釈だ。「休め、休めと言われ、なんのトレーニングもしなかった。それがよくなかったかなと思う」。
3年目は10勝(12敗)、4年目は6勝(11敗)どまりで、65年には野手に転向した。背番号20を譲り受けた、大先輩の杉下茂監督が就任した68年、投手への復帰を目指した。しかし、もう1年目のボールは戻らなかった。1勝を挙げただけで、翌69年に現役を引退した。まだ30歳だった。
19年1月、権藤の野球殿堂入りが発表された。ゲストスピーチに立った杉下氏が、短命に終わった右腕の球界への貢献をたたえた。「権藤君は、当時の監督の命令でなりふり構わずに投げた。毎日のように投げて肩をつぶしたが、指導者になって1年でも投手の寿命を長くしようと、分業制を確立した」。
▷30歳で引退 指導哲学に反映
指導者となった権藤は、選手の自主性を尊重した。「肩は消耗品」と言い、無理な登板はさせなかった。
近鉄、中日などの投手コーチ時代には起用を巡って監督と対立したこともある。それでも考えは変えず、横浜(現DeNA)の監督となった98年には日本一に輝いた。
権藤が現役時代を振り返るとき、酷使されたとは決して言わない。自分の意思だったと言う。野球殿堂入り発表の席でもこう話していた。
「投げすぎはダメですが、投げることが必要なときは、投げなきゃいけない」
1年目から中日の背番号20を背負った、エースとしての矜持(きょうじ)が貫かれていた。