【ホークス週間④山内孝徳】「俺を出すなら、パ・リーグに出してくれ。わが家が裏切るなら、闘争心を持って向かっていく」

ウィークデー通しのホークス特集。第4弾は、南海~ダイエーの転換期に活躍した「ヒゲのエース」こと山内孝徳投手のライフタイムを振り返ります。1982年(昭57)からの、5年連続200イニング投球回クリアはお見事。竹を割ったような、すがすがしき語りです。(2019年12月4、11日掲載。所属、年齢などは当時。文中敬称略)

傑作選

堀まどか

◆山内孝徳(やまうち・たかのり)1956年(昭31)8月5日、熊本県生まれ。鎮西から電電九州を経て79年ドラフト3位で南海入り。野村克也元監督の背番号19を引き継ぐ。82年から7年連続2桁勝利。引退後は野球解説などで活躍。実働12年の通算成績は100勝125敗5セーブ、防御率4・43。球宴に3度出場。現役時代は175センチ、79キロ。右投げ右打ち。

【南海編】肥後もっこす 3つの怒り

ホークス九州移転30周年の節目となった2019年を、ソフトバンクは日本一で飾った。名門ホークスをダイエーが南海電鉄から譲り受け、本拠地を大阪から福岡に移して30年。西鉄ライオンズをしのぶファンの多かった九州を、少しずつ少しずつホークスの色に染めた。移転当時にエースとして君臨したのは、山内孝徳氏(63=野球解説者)。衝撃の球団身売りから、ダイエーホークス本拠地1勝を刻んだエースの思いをお届けする。

「さよなら南海ホークスセレモニー」で場内一周。南海球団旗を持つ左から山内孝徳、小川史、杉浦忠監督、藤本博史=1988年10月15日

「さよなら南海ホークスセレモニー」で場内一周。南海球団旗を持つ左から山内孝徳、小川史、杉浦忠監督、藤本博史=1988年10月15日

骨うずめるはずが…はらわた煮えた

1988年、夏の盛りだった。衝撃のニュースを一般紙とその系列スポーツ紙が1面で報じた。

「南海ホークス身売り」-。

記事の内容は、関西新空港開業を控え、本拠地・大阪球場を含む難波再開発計画に取り組む必要に迫られた南海電鉄が、ついに球団を手放す決断を下したというもの。

譲渡先に挙がったのは、大手スーパーのダイエーだった。

山内何? ダイエー!? ってところから俺たちは始まった。あの頃、ビール会社が球団を買ううわさは出ていたけど、スーパーが何で球団? って。日がたつにつれて、結構金を持っていて全国展開してるよって話から、これは本格的だという話になっていった。

エース杉浦忠の59年日本シリーズ4連投など球史を彩った名門も、そのころは11年連続Bクラスに低迷。

資金難による弱体化とみなされ、毎年のように身売りのうわさは流れた。

だが88年の一報は、うわさの域を超えていた。

当初は完全否定した南海電鉄も9月14日、ダイエーへの譲渡を発表する。親会社の決断を聞いた山内は、怒り狂った。

山内俺が骨をうずめるつもりで入ったホークスが身売り!? ショックではらわたが煮えました。

ドラフト2位の約束が…

鎮西高、電電九州、プロへと道は続いたが、南海入団までには曲折があった。

79年ドラフト。

事前に南海は山内に2位の指名予定を伝えながら、実際は3位。

オールスターに登板する南海の山内=1985年7月

オールスターに登板する南海の山内=1985年7月

浪商(現大体大浪商)のドカベンこと香川伸行が先に指名された。「約束を守らん球団なんかに行くか」と山内は怒った。

入団を保留し、翌年の都市対抗、日本選手権に出場。「ドラフトまで待つなら上位で指名する」と水面下で名乗りをあげた球団もあったが、南海は名捕手、野村克也の背番号だった19を山内に提示した。

山内そこまで言うなら行きますって返事した。心の中では、プロに行くならホークス以外は行かんと決めとったから。やっぱり南海が1番に声かけてくれたから。

南海のために一心不乱に投げ抜いた。低迷するチームで、入団2年目から7年連続で2桁勝利を挙げた。

山内ただ勝つことしか考えてない。先発を任された試合を完投する、完投しないと意味がないという思いで1年1年の野球人生をつぎ込んで8年が過ぎた。8年が過ぎたら身売りの話が出た。そこで戦うんだと決めて骨をうずめる覚悟で入った球団が身売りする。本当にショックやった。

巨人トレードのうわさが…

それでも少しずつ、山内は気持ちに折り合いをつけた。

球団の移転先が、故郷・熊本の隣県・福岡というのが救いになった。

山内九州が地元になる。だったらもう仕方ない。よし、やってやろう! と割り切ったときだった。

ある新聞記者が山内に声をかけた。

「よかったですね。ジャイアンツに行くんですね」と、水面下で巨人の看板選手とのトレードが進んでいると告げた。

「何やと!?」

また山内の血が怒りで煮えたぎった。

トレードマークのヒゲは健在=2019年

トレードマークのヒゲは健在=2019年

山内俺はホークスに命をかけて入った。その俺をいらんと言うのかと。

受話器を握り、怒りに震える指先で押した番号は大阪・難波の南海球団事務所。

不在の球団代表に代わって電話に出た編成担当に、山内は言い放った。

「俺を出すなら、パ・リーグに出してくれ」と。

山内ホークスは俺にとってはわが家。わが家が俺を裏切るなら、俺は闘争心を持って向かって行きますよと。俺の投球はわかってるでしょと伝えました。

持ち前の正確無比な制球力。その力を持って、ホークス打者を文字通り倒しに行くと宣戦布告したのだ。

1週間もしないうちに、山内にトレードのうわさを伝えた新聞記者が「終わったみたいですね」と言ってきた。

山内が信頼する当時の監督、杉浦忠は「そんな話は知らんし、タカは出さんよ」と言いきった。

山内が引退後に耳にしたのは、巨人の監督、王貞治も中日の指揮官、星野仙一も山内をほしがっていた。だが、山内の唯一無二のわが家は南海だった。

1988年10月15日、大阪球場に近鉄を迎えての最終戦。

3万2000人が涙ながらに投げ入れる紙テープがたなびく中、杉浦は立大時代の盟友、長嶋茂雄の名文句を引きあいに「長嶋君の言葉ではありませんが、ホークスは不滅です。行ってまいります」と大阪に別れを告げた。ホークスは博多へ旅立った。

★先輩の提言…断るための「19番」

ドラフトで南海が19番を提示していなければ、「南海山内孝徳」は存在しなかった。

2位指名の約束が守られず、契約に応じようとしない山内に対し、球団関係者が「金でごねているのか?」と発言。

その言葉に山内は激怒し、話はこじれにこじれた。

電電九州の先輩が「本気で入団を断るつもりなら、野村さんの背番号をほしいと言ってみるのはどうだ?」と提案。球団は受けるつもりはないだろうから、それを理由に断ればという話になり、山内はスカウトに「19番をいただけるなら」と伝えた。

スカウトは即答できず「持ち帰らせてほしい」と帰阪。だが予想に反し、球団は承諾した。

さすがの山内も、折れた。指名からほぼ1年後、南海に入団。即戦力となり、19番に恥じない活躍を見せた。

キャッチボールをする南海・野村克也

キャッチボールをする南海・野村克也

南海のエース山内孝徳は、福岡の地で再スタートを切った。1989年(平元)4月15日、平和台に西武を迎えての本拠地開幕戦でダイエーは2-1で勝った。1失点完投でホークスのホーム初勝利を挙げた。「九州の盟主は、俺たちダイエーホークスだ」。鬼気迫る姿でマウンドに仁王立ちし、九州にホークスの第1歩を記した。

【ダイエー編】「俺たちだぞ、もう」

満員御礼のスタンドの半分を、ライオンズブルーが埋めていた。

1989年4月15日、ダイエーホークス初の平和台開幕戦。

九州の野球ファンはまだ、埼玉・所沢に去ったライオンズに思いを残していた。先発の山内は奮い立った。

山内俺たちだぞ、もう。九州は俺たちの本拠地なんだと知らしめたかった。

ダイエー対西武開幕戦で超満員の平和台球場=1989年4月13日

ダイエー対西武開幕戦で超満員の平和台球場=1989年4月13日

東京ドームで迎えた4月8日のシーズン初戦。

開幕投手を託された山内は、日本ハム打線を4安打に抑えたが、味方の拙守から失点し、4-4の9回裏に中島輝士にサヨナラ2ランを浴びた。

2日後の3回戦で加藤伸一が力投しホークスは新球団初勝利を挙げたが、エースは無念の思いをかみ締めて福岡に戻った。

山内責任を果たせなかったショックがあった。エラーがなかったら…と周りから言われても、最後に打たれたのは俺だったから。

監督の杉浦忠が「平和台開幕はお前で行く」と告げたとき、山内は「俺でいいんですか」と聞き返した。

山内「お前しかおらんやろう」と杉浦さんは言ってくれた。故障を抱えていても、お前は中4日を崩したことがない。責任感が一番あるのがエース。だったら、お前しかおらんと。

「営業の人が、どれだけ駆けずり回ったか」

かつての大エース杉浦からそこまで言われ、再び闘争心に火がついた。

本拠地開幕戦。福岡市の自宅で、神棚に手を合わせて向かったマウンド。当代最強の西武打線に立ち向かった。

山内戦う以上、相手に負けたくないという気持ちだけで俺は戦ってきた。今までの戦いは、その積み重ね。でも平和台のその1勝は、そうじゃないのよ。負けられない責任感、俺を指名してくれた杉浦さんへの恩返し、そして九州にホークスありというのを知らしめたい。その気持ちで投げたんです。

ダイエー元年の助っ人、ウィリー・アップショー。33本塁打、80打点と活躍した=1989年1月

ダイエー元年の助っ人、ウィリー・アップショー。33本塁打、80打点と活躍した=1989年1月

3回に河埜敬幸、5回にウィリー・アップショーの適時打で計2点の援護をもらった。だが6回に石毛宏典にソロを浴び、1点差で迎えた終盤、山内は鬼神となった。

主軸を迎えた8回、攻めに攻めた。3番・秋山幸二を遊ゴロ、4番・清原和博を三振。1球投げるたび、こぶしを突き上げ、天にほえた。

山内営業の人らがどれだけ駆けずり回ったかを知っていたから。中内オーナーの意志が社員に伝わり「俺たちが作り上げるんだ」という意気込みで九州を回った。子どもにダイエーの帽子を配って回った。それに応えないといかん、ライオンズのブルーを俺たちの色に変えないといかん。努力を無にするわけにはいかなかった。

9回2死三塁、平野謙を直球で二飛。128球、5安打1失点だった。3者凡退はわずか2回。

再三のピンチをしのぎきった完投勝利を、V9巨人を率いた名将、川上哲治は日刊スポーツ紙上でこう評した。

「『打てるなら打ってみろ』の気迫がみなぎっていた。(中略)常にがけっぷちで完投した精神力は、どこから生まれたのか。何もかも生まれ変わろうとする『新生』の芽生えを、そこに見てとった」

燃え尽き症候群

中学で野球に出会った。鉄げたをはいて下半身を、工事現場で拾った鉄のナットをはめた、手製のマスコットバットで、スイング力を鍛え抜いた。

鎮西、電電九州エースを張り、南海でも1年目から即戦力になった。野球人生で培ったすべてをかけ、チームに九州初勝利をもたらした。

それがエース山内孝徳の実質、最後の投球になった。

山内もしあの時投げていなければ、ダイエーでの4年間に俺はもっと勝っている。あの開幕戦の後の試合でも、気合を入れてんだけど、あの試合の気合と何か違う。引退したあとにそれをずっと考えてたら、ロッテの渡辺俊介がWBCですごくいい投球をした。でもそのあとに結果を残せなかったことに対して、心理学者が「燃え尽き症候群」って言葉を出した。俺もそれだ! って。あれで俺、燃え尽きてた。投手・山内孝徳をつぎ込んでしまった。

ダイエー山内はプロ通算100勝目を飾り花束を手にファンの声援に応える=1992年6月28日

ダイエー山内はプロ通算100勝目を飾り花束を手にファンの声援に応える=1992年6月28日

「あしたのジョー」の主人公、矢吹丈はホセ・メンドーサとの死闘で灰になった。

エースの責任を果たし、山内も燃え尽きたのだ。

92年6月28日、日本ハム戦で通算100勝を達成。最後の勝利も平和台だった。

同年、山内は現役を引退した。それでも悔いはない。

山内あれ以上の試合は俺にはないんだ。日本シリーズで投げることはなかったけれど、投げていたとしてもあれ以上の試合は俺にはなかったろう。俺にとってプロに入った証しであり、プロに入った意味があったということ。自分の運命に従って全力で努力した。息を引き取るときはわからんけど、今悔いがないということは多分、悔いのない人生を送りよるんやと思う。

博多移転後、ホークスがシーズンで積み上げた勝利は2203。

山内の「白い灰」の上に、王者ホークスの道は始まった。