【カープ週間①前田智徳の引退会見】鎧を脱いだら人情味の塊 声援に救われバット道を全う

ウィークデー通しの広島特集。第1弾は、前田智徳氏の引退会見です。グラウンド上の寡黙な姿から一変、あまりに雄弁だった42歳の語りをノーカットで。カープ一筋、突き詰めた24年間がせきを切ってあふれ出ました。(2013年9月28日掲載。年齢、所属などは当時)

傑作選

日刊スポーツ

◆前田智徳(まえだ・とものり)1971年(昭46)6月14日、熊本県生まれ。熊本工時代に2年春夏、3年夏の甲子園に出場。89年ドラフト4位で広島入団。山本浩二監督の91年は主に2番を打ちリーグ優勝に貢献。95年5月の右アキレスけん断裂の大けがを経て、07年に通算2000安打を達成した。外野手兼打撃コーチ補佐となった13年は4月に死球で左手首を骨折し、戦列を離れた。タイトルとは無縁も規定打席到達の打率3割を11度記録。92~94、98年ベストナイン、91~94年ゴールデングラブ賞。02年にカムバック賞受賞。右投げ左打ち。176センチ、80キロ。

丁寧な練習に徹し、引退試合に臨んだ=2013年10月3日、マツダスタジアム

丁寧な練習に徹し、引退試合に臨んだ=2013年10月3日、マツダスタジアム

★感謝からスタート

すいません。今日は、たくさんの方に、集まっていただきありがとうございます。今年で、24年間の野球人生を終えることになりましたので、ごあいさつ申し上げます。

─今季も成績を残し、まだやれるという思いは

数字は、やるからにはチームに貢献したいですし、数字を出さなければ、戦うことが出来ないと思っていました。ここまで結果重視で臨んできたんですが、内容的には、とっくに褒められたものではなくなっていた。大事なところで使ってもらっていたので結果重視。代打に専念してからは、いろんな角度から野球を見て、年々、貢献できる喜びというものを感じてきてた。そういう意味では、去年にしろ今年にしろ手応えがあった。今年を集大成にして、優勝を目指して、クライマックスに出るという思いでスタートした。結果的に、自分らしくケガで戦列を離れて、チームに貢献できなかったのは非常に残念です。

全盛期のフォーム。打撃教則に採用される美しさ=1994年9月23日

全盛期のフォーム。打撃教則に採用される美しさ=1994年9月23日

─24年間、振り返ってどんなことを思い出す

若いうちから選手としても育ててきていただいたし、1人の人間としても成長させていただいて、長い間だったなという気持ち。ケガばかりで、いろんな人に迷惑をかけたし、思うような期待にも応えられなかった。そういうところは、非常に残念です。つらい野球人生でした。

★真っすぐにできた

─最高の思い出は

(91年に)クライマックス制度がなく、リーグ優勝もして、第7戦まで行って、もうちょっとのところで、日本一を逃した。あの雰囲気の中で、まだ2年目の僕が野球をやらせてもらって、あの若さで経験できない人がいる中で、もう1度経験したいと思ってやってきた。二十何年たったけど、あのときの経験が今も貴重な経験だと思います。

だから、今年はAクラスにみんなが頑張って行ってくれて、監督をはじめ、本当に素晴らしい、長く低迷した時間にピリオド打ってくれた。その中に、自分がいなかったというのは、非常に残念です。その中にいて、自分が貢献して、久々のAクラスという気持ちを味わいたかった。ま、それは僕がもって生まれたものなので、しょうがないですけど。

─プロ野球人生で貫いてきたこと

プロである以上は…結果、結果がやっぱりすべてというか、結果重視なので、結果を出すためには、どうやって準備をしていくか。どうやって、自分を成長させていくか、戦っていくか、すべてそのためにやっていった。非常にリスクはありましたけど、結果を出すために、いろんな日常生活をすべてやってきました。そのことに関しては、真っすぐに自分ではできたつもりだったので、たいした結果は残っていないんですけど、志は高かったんです。自分なりに、そういう気持ちでまっとうできたと、思っています。

引退試合の前、恩師の山本浩二氏に声をかけられ涙

引退試合の前、恩師の山本浩二氏に声をかけられ涙

─走攻守がそろった選手だったが、ケガで目指すスタイルを失った後は、何が支えていた

あのころは、本当にですね…。投げやりになったりとか、本当に自分の精神状態が乱れていたのを、覚えています。本当にどうしていいか分からなかったので。自分でも嫌になっていました。どうすればいいか分からない時間を過ごしていました。

少しずつ受け入れられるようになってきて、いろんな人に出会い、それでこのままだと、もう終わってしまうというところまで、落ちていました。そういう理想とか、どこまでやれるか、考えながら、最後にトレーナーとか、トレーニングコーチに相談しながら、トレーニングを積んで、無我夢中でやってきた。それでもうまくいかなかったので、結構、精神的には、また低迷するんですけど、そういったいろんな人に支えられた。オーナーをはじめ、励まされたので。

楽しみにしてくれている人がいるし、喜んでくれる人がいる。それだけでいいかなと。いろんなことを1個ずつ、飽きもせずにやってきた。少しずつ、報われるようになってきてからは、うれしいというか、前向きな…前向きな気持ちになれたと。本当に、少しずつ頑張ってこられたんだなと思います。

★「つらい」口癖

─入団して初めてつらいという言葉を聞いた

つらいつらいと、口癖のように言っていた。ま、情けないですけど。そうやってすべてを、自分をうまく落ち着かせながら、納得させながら、やってきた。そういうのにも、ずいぶん慣れましたし、そういった中で、やっていけている自分がいたので、ちょっと成長しているかなという、自分がいました。やっててよかったかなと思います。

場内一周。求道者の姿勢を貫き、圧倒的な支持を得た

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─前田選手の打席に入るときの声援は名物

自分が打席に入るときには、大事な場面で重要なところで使ってもらっているので、本当に余裕がないまま、打席に入るんです。準備はしているんですが、緊張感は高いので、結果は出さないといけない、失敗をしないようにと。そういう役割である以上は、結果を残すために、準備をしていくわけなんですけど、そこに集中しているので、余裕はなかった記憶があります。

声援は非常にあるなという、感覚はあるんですけど、緊迫しているのでじっくり聞いているとか、見渡す余裕もない。短い時間で勝負をしないといけない。本当に結果が出て、喜んでくれてチームも貢献できて、ということが役割だった。本当にそういうところで使っていただいて、十分な結果を残すことはできなかったんですけど、声援を受けてやって来られた。十分な結果を残すことはできなかったですけど。

★地味の大切さ

─理想の打撃に近づいたことはあった

若いころはいろんなことが新鮮で、いろんなことを教わり、実践して、試合で結果が、出たり、出なかったり。そういう毎日が、ガツガツしたものがあったんです。すべてのことを吸収してやろうと、ものにしたかったので。よく練習はやってきたんですけど、そうやって練習をして、いろんなことを繰り返し、繰り返しやることで、自分のものになってくるときが、突然来るというのも学びましたし。

若いときに、地味なことをやるという大切さとか、身をもって知ることがあった。今も続けてやれることがあったのは、自分にとっては、非常にうれしいことだったし。財産でもあった。

大きいケガをしてから、理想とか、先ほども言いましたように、そういうレベルではないところで野球をやっていたので。その時点で、まずは理想とか技術的な向上とか、目標とか、そういうものは、諦めたと言ってはいけないけど、そのレベルにいけなくなった。自分の中で、ケガと向き合っていかないといけないなと思って、やって来ました。ずいぶん、昔の話なので理想がどうだったとか、もう思い出せないですね。

右アキレス腱断裂の大けが。心身の両面で転機となった=1995年5月23日

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─家族にはどのように伝え、そのときの反応は

家族とは毎年この時期になると、そういう話をしていたので。4、5年前からずっと話をしていて、そのたびに(引退を申し入れながら慰留された)オーナーの話を出させてもらって、励まされながら、もう1年、もう1年といって、今回は承諾を得ることができたから、今度こそ引退します、引退するよと。話をしたときは、同じような気持ちでいてくれた。ホッとしたような、理解してもらっているので、ご苦労さまという感じで話をしました。僕からも、ありがとうと伝えました。本当に支えてもらったんで、これから家族に、少しずつお返しができたらなと思っています。

─印象に残ってる打席は

いろんなことがありすぎて、節目節目で、たくさんあるんで。どうでしょうかねぇ。すぐには、ぱっと出てこないですけど、難しいですね。プロ入り初めてのヒットですね。あと、今年最後のマツダスタジアムで巨人戦でのヒットですかね。最初と最後です。今は、そういう感じです。