【カープ週間⑤赤松真人コーチ】野球人の本分秘め胃がんに挑んだ勇者「19年までやれたのは、がんのおかげかも」

赤松真人といえば、この1枚ですよね。2010年8月4日、マツダスタジアムの横浜戦。村田修一が放った大飛球を左中間フェンスによじ登り、振り向きざまに捕球。米スポーツ専門局「ESPN」で、1週間の好プレーを選ぶ「トップ10」の1位に選ばれ、世界中に広がりました。一直線にフェンスへ走るプレーと重なる、胃がん克服へ一直線に歩む道のり。勇気をもらえる書き下ろしです。

ストーリーズ

前原淳

◆赤松真人(あかまつ・まさと)1982年(昭57)9月6日生まれ、京都府出身。平安(現龍谷大平安)から立命大を経て04年ドラフト6巡目で阪神入団。07年オフに、FA移籍した新井貴浩の人的補償で広島へ移籍。外野守備の名手として存在感を示し、10年にゴールデングラブ賞を受賞。17年1月に胃がん摘出手術を受けた。19年に引退後は、広島の2軍外野守備、走塁コーチを務める。182センチ、70キロ。右投げ右打ち。

引退セレミニーで。カープの家族的まとまりが感じられるショット=2019年9月27日

引退セレミニーで。カープの家族的まとまりが感じられるショット=2019年9月27日

25年ぶり優勝の裏で

日差しを遮るものがない、緑広がる山口・岩国市にある由宇球場で背番号93は右腕を回している。現役時代に俊足を生かした好走塁と広い守備範囲を誇った、赤松真人。現役を引退した翌20年から2軍外野守備走塁コーチを務める。

現役時代は相手バッテリーの警戒網をかいくぐり通算136盗塁を記録した。だが現役終盤は、相手バッテリーではなく、病気との闘いが待っていた。

広島が25年ぶり優勝に沸いた16年。シーズンオフの12月5日、赤松は毎年個人的に健康診断を受けていた。そこで告げられたのが「胃がん」だった。

「今年はのんでみようか」。初めて臨んだ胃カメラ検査が発見につながった。幸い、がんは初期段階で、生死に関わらないものだった。ただ、手術は必要。一般社会に、ではなく、アスリートとしての復帰には、乗り越えなければならないハードルはいくつもあった。思わぬ困難にも、赤松は自分らしさを失わなかった。

16年のカープ恒例、勝利のヒップアタック。左から赤松、鈴木、丸=2016年6月1日

16年のカープ恒例、勝利のヒップアタック。左から赤松、鈴木、丸=2016年6月1日

「復帰をして、野球ができる状態になるのかは、わからない。でも早く治して、前例になるようにしたい。前向きにしか考えていない」

若手とベテラン、首脳陣と選手の橋渡し役も担った。そんな男はがんを発症しても、下を向かない。チーム内でも明るく、常に前向きな性格でムード―メーカーだった。

強がりではない。あれから5年以上がたった今も、当時の発言を当然のことのように振り返る。

「暗くなっても仕方ないじゃないですか。暗くなる人もいるかもしれないけど、暗くなっても病気が良くなるわけでもない。それなら僕はいつも通りやった方がいいと思うタイプだから」

17年1月 リンパ節への転移

そんな赤松でも、抗がん剤治療は思い返したくもない時間だった。

翌年1月5日の切除手術後に「リンパ節」への転移が判明。医師から勧められた「抗がん剤治療」は2種類。飲み薬を1年間、じっくり使うものと、飲み薬と点滴を併用し、半年で終わらせるものがあった。

副作用が強くても、半年の治療を選択した。アスリートとして復帰することしか頭になかった。

同下旬から抗がん剤治療が始まった。その事実を初めて公表した3月のブログにこう記していた。

「3週間を1セットとして8セットします。1月20日から始めていますので今は、3セット目が始まっています。今がまさにキツイ時です! やり始めて1~4日が僕はきついですが、ここを踏ん張ると何とか耐えられます! 頑張って耐えます!」

6カ月の抗がん剤治療

何とか前向きに取り組もうとしても、弱音や泣き言を吐きたくなるほどの苦しさだった。「本当につらい。本当に立てないし、3日間ずっと寝込んじゃうとか。足も尋常じゃないくらい細くなる」。自分を奮い立たせてくれたのは、同じ病気と闘う人たち。赤松の支えとなり、励ましとなった。

そして何より家族の存在が大きかった。毎日の献身的なサポートに、体重減少のストレス緩和に100グラム単位で体重を記録。食事制限のない退院後も、食欲がないときには消化にいいものを準備してくれた。「本当に、奥さんには頭が上がらない」。約6カ月続いた抗がん剤治療を乗り切ることができた。

練習を再開。左手にボールを握りしめ=2017年7月11日

練習を再開。左手にボールを握りしめ=2017年7月11日

迎えた7月11日、赤松は世界遺産の厳島神社を望む広島・廿日市市の大野練習場にいた。同7日に最後の抗がん剤治療を終え、リハビリ組を中心とした広島3軍に合流した。「ワクワクです。動けているのが楽しい」。海風を浴びながら踏み出した1歩に、自然と表情は緩んだ。

歩みは決して速くない。踏みしめるではなく、かみしめるように、ゆっくり、ゆっくり、細くなった足を動かした。体重は落ち、筋力の数値も「ひどい。驚愕(きょうがく)した」と笑う。手足のしびれなどの後遺症を抱えながらも、ようやくたどりついたスタートラインに、喜びしかなかった。

ファーム55試合出場「戦力」

1歩1歩前進しながら、マシン打撃をこなすまでに回復し、シーズンオフに球団事務所を訪れた。がんの発症を伝えてから1年。減額制限いっぱいの25%減となる900万円減の、年俸2700万円(金額は推定)で契約を更改した。「病気をしているし、普通だったら…。ありがたいです。お金じゃない」。球団への感謝を胸に、前を見つめた。

翌18年はグラウンドに戻ってきた。2月から2軍春季キャンプに参加し、ウエスタン・リーグ55試合に出場した。打率2割3分7厘、5打点。7月21日オリックス戦では、復活後初アーチを描いた。

持ち味での快足でも、5盗塁。同年オフには「戦力として見ていると言ってもらった。すごくありがたいし、頑張らないといけない。お金ではない。1軍でプレーするのが恩返し」と闘病から復帰2年目のシーズンに意欲を示した。

赤松には、現役を続ける理由があった。

「自分のためじゃない。周りのため。自分のためだったらとっくに辞めている。ラスト1年。その気持ちで戦いたい」。使命だと思った。大げさではなく、そう思った。

「目標、希望になる」

「プロ野球選手という立場なので、頑張れば苦しんでいる人たちの目標、希望になる。プロ野球選手だから、テレビにも映るし、話題にもある。頑張れば、影響力もある。僕はそっちに走った。だから、頑張らないといけない、と思いました」

結果的に1軍復帰はならず、19年に現役を引退した。コーチになっても、できることはある。新型コロナウイルスの広がりにもよるが、オフに講演会などのオファーがあれば、どこにでも足を運ぶつもりでいる。「くよくよしてはいけない。なったことは特別なこと。治していく過程もすごく大事」。SNSなどを使って自ら発信するタイプではないものの、今後も誰かの希望となる姿や言葉を伝えたい。その思いは強い。

現在は2軍外野守備走塁コーチを務める。カープらしさを表現できる後進を育てる

現在は2軍外野守備走塁コーチを務める。カープらしさを表現できる後進を育てる

プロ野球人生にとって転機となった「胃がん」だが、現役を引退した今も悲観的な感情は一切ない。

「僕の中では、病気になったから野球人生が変わったと思っていない。がんになっていなければ、もっと早くクビになっていたかもしれない。19年までやれたのは、がんのおかげかもしれない」。

ノックバットを握り、三塁コーチャーズボックスに立つ今もそう思う。がんと闘い抜いた男は、今もきっと誰かの力になっている。