JOCが主催する東日本大震災復興支援事業「オリンピックデー・フェスタin紫波」が8日、岩手県紫波町で行われた。

 私自身もさまざまな形で、復興支援活動を行ってきているが、このイベントは東日本大震災後、被災地に対して「何かできないか」というオリンピアンを中心とするアスリートの声から始まった。内容は、地域の住民の方たちとオリンピアンが運動会を通して交流しよう、スポーツを楽しもうというものだ。

 いつも私は、汗だく。オリンピアンの勝負に対する真剣さが、一緒に参加する人たちの本気を呼ぶ。とても一体感が生まれる。

 あの日、私はまだ競泳の現役選手だった。2011年3月11日午後2時46分。世界選手権の代表選考を兼ねた4月の日本選手権前で、富山で合宿をしていた。バスに乗っていると「東京の実家に電話をしなさい」というメールが届いた。電話をしてみたが、つながらなかった。聞いたことがないアナウンスが流れていた。

 「なんかおかしくない?」。そう感じた。

 バスを降り、商店街の大型スクリーンに映し出される映像に言葉を失った。「街が海に飲まれている」。

 私が拠点にしていたトレーニング場は、千葉にあった。「プールの水が半分以上なくなった」と聞いた。いろんな言葉が飛び交う中、ただごとではないことを理解した。

 「華英は大丈夫なのか?」。海外の友人からも多く連絡をもらった。その年の日本選手権は開催が不安視されたが、無事に行われ、私も日本代表に選ばれた。

 現役を引退するまでの間に、気仙沼を始め、陸前高田、大船渡など多くの場所を訪れた。被災直後の気仙沼の小学校は、砂が多く残っていた。「何ができるのか」。懸命に考えた。

 その時から、すでに7年が過ぎた。

 多くの東北の町を水泳教室や取材などでうかがっているが、今回、紫波町は初めての訪問だった。このイベントについて書きたくなった理由がある。

 紫波町は、同じ岩手県の大槌町とのふるさと交流学習事業という事業を行っている。

 紫波町の上平沢小学校、片寄小学校と、大槌町の吉里吉里小学校の小学生たちが、夏は吉里吉里、秋は紫波の水田で相互に交流している。今年で35回目となる。

 その27回目の年に、震災は起きた。沿岸にある大槌町は、甚大な被害を受けた。

 震災直後、この「ふるさと交流学習」の関わりから、紫波町はいち早く大槌町の被災者受け入れを決定した。紫波公民館を避難所として被災者97人(最大時)を受け入れ、約2カ月、ふるさと交流事業に関わった地域の方々が避難所の運営に協力した。

 「30回目を機に交流をやめてしまおうか」と、話していた矢先の震災だったという。実際、震災の年はさすがに実施は無理なのでは、との声もあがった。吉里吉里地区の被害も大きかったためだ。

 しかし、3校の保護者たちは「災害によって交流を中断するべきではない」という声のもと、実施した。

 このお話をしてくださったのは、紫波町議会議員の熊谷育子さんだ。

 「この事業を続けていて本当によかった。地域の人たちが、すかさず手を挙げ避難所の運営に手を貸してくれた」。

 日本の良さは、協力できることだと思う。

 世界で4番目の大きさだったという、あの地震。

 どこに行っても聞くのは「人と人が助け合う、支え合う」という話だ。感謝の気持ち。物資の提供もあってのことだが、「人とのつながりこそが助けになった」。

 7年経った今、みなさんの話を聞いて、生きていく中で大事なことを思い出す。

 これからも東北へ足を運びたい。私にできることをやり続けたい。そう心から思う。

 熊谷さん、紫波町のみなさんありがとうございました。

(伊藤華英=北京、ロンドン五輪競泳代表)