90年代前半、ボクシング担当記者だった私は、記事に困ると都内のヨネクラジムに顔を出した。世界ストロー級王者の大橋秀行がいたからだ。彼はネタの宝庫だった。「スタイルを改造したよ」「20万円のマウスピースができた」「司馬遼太郎を読んで戦国武将の心構えを参考にした」……ジムを訪れた若い知人の女性と、そのままデートに出かけたこともあった。

90年2月に彼が世界王座を奪取するまで、日本は世界挑戦21連続失敗。世界王者不在が1年以上続いていた。ボクシング人気は落ち込み、メディアの露出も激減。世界戦のテレビ中継もゴールデンタイムから週末の昼間に移行しつつあった。世界王者になった大橋も強い危機感を抱いていた。旺盛なサービス精神の裏側には“斜陽のボクシング界に光を当てたい”という思いが込められていた。

30年も前の話を思い出したのには理由がある。現在、大橋ジムを経営する大橋会長が今月16日に東京・後楽園ホールで無観客タイトル戦を開催するからだ。東洋太平洋フェザー級王者清水聡と、日本スーパーライト級王者井上浩樹(いずれも大橋)の防衛戦は、コロナ禍後、国内最初のタイトル戦になる。「ボクシングの灯を消せないという思いもある」という大橋会長のコメントが、現役時代の彼の姿と重なったのだ。

ボクシングはプロ野球やJリーグと比べて放映権料やスポンサー料がはるかに少ないため、収入の大部分を入場料で賄う。だから無観客では興行として成り立たない。特にタイトル戦は選手の報酬や会場使用料などを考えると、数百万円単位の赤字が予想される。それを覚悟で開催に踏み切るのは、個人的な損得を抜きにして、プロ野球やJリーグに負けないように“ボクシングにも光を当てたい”という思いからだろう。

昨年、大橋会長を久しぶりに取材した。愛弟子の世界バンタム級王者の井上尚弥を、4人の現役世界王者らが参戦する最強トーナメントに出場させた理由を聞くと、こう即答した。「今は野球もサッカーもテニスもプロ選手が海外で活躍している。自分の頃とは時代が変わった。一方で世界戦も国内で興行し続けてきたボクシングの注目度は薄れた。だからリスク覚悟で世界で勝負をかけた」。井上の挑戦に、日本ボクシングの未来を託していた。

「自分が勝ったことより、日本の連敗を止めたことが何よりもうれしい」。90年2月7日、世界王座を奪取した大橋は、リングの上でそう叫んだ。窮地に強さを発揮できるのが、この人の強みでもある。30年という歳月を経ても、選手から会長に立場が変わっても、彼は変わらない。

無観客タイトル戦は試合の3日後、19日深夜1時55分からフジテレビで録画放送が予定されている。【首藤正徳】(敬称略)

(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)