【2006年5月26日死去/山本英一郎さんを悼む】国際化とプロアマ一本化 中興の祖

台湾選手を迎えるはずの成田空港に姿がなく、関係者が自宅へ行くと眠るように息を引き取っていた山本英一郎さん。87歳でした。カテゴリーや国籍にとらわれず、野球人が行き来できる環境を作る。志を込めてグランドデザインを描くだけでなく、遂行する力が突出していました。「巨星」という言葉がふさわしい野球人を、命日に振り返ります。(所属などは当時)

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鳥谷越直子

◆山本英一郎(やまもと・えいいちろう)1919年(大8)5月12日、岡山県生まれ。中学まで台湾で育つ。台湾・台北一中時代に投手兼外野手で2度の甲子園出場。慶応大に進み、42年に鐘紡に入社。海軍を経て51年から東京6大学の審判。52年から高校野球、都市対抗の審判。64年に審判を退き、世界のアマチュア野球界との交流を進める。97年から日本野球連盟会長、99年には全日本アマチュア野球連盟会長に就任。05年2月に退任した。

山本氏の功績、歩み

五輪競技に尽力 IOC総会が開かれるたびに国際野球連盟(IBAF)のメンバーとしてロビー活動を展開。84年のロサンゼルス五輪で野球の公開競技入りに尽力し、92年バルセロナ五輪から正式競技に昇格させた。またIBAFの副会長を05年2月まで務める。

アマ一本化 国内のアマ野球団体を統括する組織として90年6月、「全日本アマチュア野球連盟」設立に尽力。

プロアマ交流 92年3月、「バルセロナ五輪代表」対「プロ12球団選抜」の交流戦を開催。アマ側が申し入れて43年ぶりのプロ・アマ対決を実現させた。

プロアマ合同軍 00年シドニー五輪からプロ参加が解禁となることを受け、99年のアジア予選でプロ8人が加わった初のプロアマ混成による日本代表を送り込んだ。04年アテネ五輪ではオールプロによる日本代表の編成をプロ側に要請。

キューバ交流 アマ最強を誇る同国からの選手受け入れ窓口となり、02年に英雄リナレス内野手の中日入りへの橋渡し役となる。社会人野球にも続々と大物選手が来日。

殿堂入り 野球の国際化に情熱を注いだ功績が評価され、97年に特別表彰で野球殿堂入り。

■会長室に漂う葉巻の香り

【悼む】最後までアマチュア野球の国際化に情熱を燃やしていた人だった。野球が北京五輪を最後に正式種目から除外された直後は猛烈に反発。その復帰を新たなライフワークに加え、水面下で働き掛けていた。

日本野球連盟会長を昨年2月に勇退。その際「何も悔いはない。いつ死んでもいい」と満足げに話した。連盟関係者や記者との懇親会では、重い荷物を下ろした安堵からか、時折、葉巻をくゆらせ、思い出の曲を十数曲歌い続けた。

多くの実績の中でも、特筆すべきは、国交のないキューバの野球の魅力を何としても日本に取り入れたいと、交流に着手。今では世界各国の野球関係者から「ヤミー」の愛称で呼ばれるほど貴重な人脈を築いていた。

アテネ五輪壮行試合・キューバ戦で=2004年7月13日

アテネ五輪壮行試合・キューバ戦で=2004年7月13日

WBCの日本の優勝にも遠からず影響を及ぼした。取材を通じて接した山本氏は、独善的で実行力が目立つ半面、人情味も光った。私事だが、2年前に入院した際、その後半年にわたり、球場や事務局で会うたびに体の様子を気遣って下さった。

国際会議に向かう山本氏を何度も成田空港で見送った。小さいボストンバッグ一つで世界を飛び回る姿に、「国際会議が重なっていますが、お体大丈夫ですか? 」と聞くと「どこに行っても現地の物を食べるし、酒も飲む」と、年齢を感じさせないエネルギッシュさに驚かされた。

連盟の会長室に漂うあの葉巻の香りが好きだった。

巨人長嶋茂雄終身名誉監督札幌での(アテネ五輪野球)アジア予選会場で“シゲ、頑張ってくれよ”と激励していただきました。試合後の固い握手は、今も忘れられません。

楽天野村克也監督シダックス時代は大変お世話になった。プロアマの垣根をとっぱらわなきゃいかんと、いつも話してました。同じ野球をやるのに、どうして日本人同士がいがみ合わなきゃいかんのかって。大変残念です。お悔やみ申しあげます。

ヤクルト古田敦也兼任監督僕らのころにはまだ公開競技だったけど、それを正式種目にするために力を注がれていた。努力がやっと実って92年に実現できたということをよく知っています。アマチュアだけじゃなく、野球界全体への貢献は非常に大きかったと思う。

横浜山中正竹球団専務突然のことで大変困惑しています。日本の野球界を国際化された大功労者であり、まだまだ私たちもご指導をいただきたかった。