吉田拓郎らしく歌い 吉田拓郎らしくうそぶき 吉田拓郎らしく歩みを終える

【番記者裏話】スクープや芸能界の最新情報を求めて現場を駆け回る芸能記者が、取材を通じて感じた思いをつづります。

番記者裏話

竹村章

ストーリーズ

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先日、吉田拓郎(76)の見出しが、日刊スポーツとスポニチの1面を飾った。拓郎といえばGLAYではなく吉田。ファンは拓郎と呼ぶが、かなり年下の音楽記者としては、呼び捨てするのは気が引けるが、長文にもなりそうなので、今回は、拓郎と書かせてもらう。

7月21日放送のフジテレビ系音楽バラエティー「LOVE LOVE あいしてる最終回・吉田拓郎卒業SP」を最後に、拓郎がテレビ出演から退くことが正式に発表された。コンサートなどは行わず、レギュラーのラジオ番組も年内に終了。この特番が見納めになるとみられる。

同局を通じて「僕は年齢的にも2人より全然上で、いろいろなことをリタイアしたいなと考えていまして。そういう意味で、テレビとのお付き合いも『LOVE LOVE-』で最後にしたいな、と随分前からありました。とてもすてきな有終の美を飾れそうで、とても幸せ、皆さんに感謝しています」とのコメントも発表した。

拓郎らしい、とても、丁寧でやさしげな言葉だと思う。

今、私の手元には、6月29日にリリースされた、最後のアルバム「ah-面白かった」がある。CDだが、パッケージはDVD。ファンに向けて、楽曲についてその思いをつづった超厚いブックレットが封入されている。そもそも、この作品を最後に「52年のアーティスト活動にピリオドを打つ」ことを表明しており、このアルバム制作を耳にしていた1~2年前から、この日が来ることは覚悟していた。

拓郎は、日本の音楽史に残るスーパースターだと思う。本人は「みんな僕を勘違いしていてね」とか「パイオニアよりはパナソニックがいいってぐらいでさ。それくらいの軽さで、大きな出来事に偶然、僕はいるんですよ」とインタビューではうそぶくように語る。だが、本人の意思とは別に、時代が拓郎を祭り上げてしまった。それはフォークソングが反戦、反体制を旗印にしてきたからなのだろう。

ただ、70年の安保闘争やベトナム戦争も終焉(しゅうえん)を迎えると、音楽は内面的で叙情的な内容に変わっていく。時代の必然でもあった。井上陽水の「傘がない」がヒット。世の中の社会的な問題よりも、自身の、身の回りの諸問題の方が、個人にとっては大切、大事なのだった。

時代は進み、日本の音楽界の環境が変わっても、拓郎はスーパースターであり続ける。90年代に入ると、日本はさまざま災害に見舞われ、アーティストらも、チャリティーライブを開催するように。そのきっかけは泉谷しげるで、94年には、長崎市で「長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート」が行われた。拓郎の「俺たちは楽器が出来る。みんなでバンドを組んで、それぞれの持ち歌を演奏しよう」というアイデアから、スーパーバンドが結成される。

拓郎と盟友の小田和正を中心に、泉谷しげる、伊勢正三、南こうせつ、忌野清志郎、さだまさし、大友康平、浜田省吾がバンドメンバーとして参加した。今思えば、夢のような共演だ。

その集大成が、94年8月16日、日本武道館で開催された「日本をすくえ'94 奥尻、島原・深江地区救済コンサート」。泉谷、拓郎小田の3人によって進められたが、その内容がマスコミに報じられ、主演予定者が辞退するなど、混乱に見舞われてしまう。

詳細は書くことはできないが、そのマスコミというのが日刊スポーツだった。

混乱の模様は、後にテレビ番組になる。個人的には、知り合いの音楽プロデューサーが、拓郎から責められているシーンがおもしろい。YouTubeでは今も視聴できる。ただ、拓郎はへそをまげるそぶりを見せても、リークされたことを責めていても、どこか目が笑っている。そんな緊張感を、あえて、楽しんでいるようだ。そう、拓郎はとてもとても、優しい人なのだ。とはいえ、スーパースター。周囲のヒリヒリ感は、その画面からも伝わってくる。

拓郎には05年、日刊スポーツで連載「自分の事は棚に上げて」を担当してもらった。それに先立ち、5月には「日曜日のヒーロー」に登場してもらった。その時の本文の書き出しを引用してみる。

都内の小料理店。拓郎はマネジャーが運転する外車でやってきた。顔色はよく、一昨年に肺がんを告知されたとは思えない。生ビールを一気に飲み干し「僕はね、タコとイカさえあればいいんですよ」「これ、頼んでみましょうよ」と意外なほど座持ち上手なところをみせながら、質問に答えていった。

前述した「パイオニアよりはパナソニックがいいってぐらいでさ」とのコメントも、この時のインタビューでの発言だ。

パイオニアには、開拓者、先駆者の意味がある。音楽史をひもとけば、拓郎が先駆者であったことに、異論はないだろう。

アングラぽかったフォークソングをメジャーに。「結婚しようよ」「旅の宿」「落陽」などのヒット曲が次のニューミュージック、J-POPへとつなげていった。大きなトラックで機材を運び、現在の全国ツアーシステムの先駆けにもなった。アーティストが主体の、自分たちのレコード会社も作った。大規模な会場でのオールナイトのコンサートも開催した。そして、何より、専業の作詞家、作曲家で形作られていた日本の音楽業界において、森進一に「襟裳岬」を楽曲提供、その曲が日本レコード大賞を受賞した。74年のことだった。

これだけ書けば、パイオニアたる由縁が理解してもらえると思う。ただ、拓郎本人は、そのあたりをいたってドライに見つめている。そして、わざとなのかもしれないが、大げさに自身を強調することもしないし、大御所ぶることもない。だからこそ、当時はギターも弾けなかったKinKi Kidsと楽しそうに、番組を続けることもできた。

拓郎の最後のテレビ出演は、記憶にとどめておこうと思う。