8回開始のゴングと同時にタイソンは勝負に出た。攻防一体の自分のボクシングを捨て、やみくもに突進して剛腕を振り回す。ただ当たることを祈って……。1990年2月11日、東京ドームでの統一世界ヘビー級タイトルマッチ。7回まで一方的に打たれた王者のダメージは深く、左目はふさがっていた。もはやボクシングでは挑戦者ジェームス・ダグラスに勝ち目はないと悟ったのか。イチかバチかの玉砕戦法だった。

2分すぎ、真正面から前進するタイソンの顔面に、ダグラスの4連打が火を吹いた。2分40秒、強烈な右フックで王者の体がロープに吹っ飛び、5万人の会場がどよめいた。ついに訪れたKOチャンスに、ダグラスは距離を詰めて連打を畳みかけた。その瞬間だった。タイソンの渾身(こんしん)の力を込めた右アッパーが、挑戦者のアゴを突き上げた。ダグラスはまるで体から魂を抜かれたように、背中からキャンバスに崩れ落ちた。

WBC・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 8回、ジャームス・ダグラス(左)からダウンを奪うマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)
WBC・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 8回、ジャームス・ダグラス(左)からダウンを奪うマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)

ダグラスは視線が定まらず、起き上がることができない。私は試合が終わったと思ったが、カウント7でようやく挑戦者がヨロヨロと立ち上がりかけると、レフェリーはカウントをやめて、ダグラスが起き上がるまで待った。その後、試合が続行された。カウントが長すぎたようには感じたが、このシーンが試合後に前代未聞の大混乱を引き起こすとは夢にも思っていなかった。ただリング下のタイムキーパーと、レフェリーのカウントがズレていたのが少し気になった。

レフェリーの試合続行の合図と同時に、8回終了のゴングが鳴った。しかし、ダグラスのダメージは深く、私は9回早々に王者が決着をつけることを疑わなかった。予想通りゴングと同時にタイソンが突進した。だが、連打を畳みかけて試合を終わらせるだけのスタミナは残っていなかった。最大の勝負どころで、走り込み不足、練習不足の影響が出た。中盤以降は息を吹き返したダグラスにロープに詰められてめった打ちされた。この回終了後、コーナーに戻るタイソンの体はグラグラと揺れていた。

もはや王者に戦い続ける余力は残っていなかった。10回1分すぎ、ダグラスのあの右アッパーでタイソンの顔が、ねじれるようにはね上がった。間髪入れずに左、右、そしてとどめの左ストレート。タイソンの体がコーナーに横倒しになった。つぶれたうつろな目で、転がったマウスピースを探している。グローブをはめた右手で何とかつかみ上げて、辛うじてその端っこを口でくわえたところで、レフェリーの10カウントが入った。

「歴史が変わった」。テレビの実況席の声が聞こえた。タイソンはマウスピースを逆にくわえたまま、レフェリーに抱きかかえられていた。その姿が私には寂しく、悲しく見えた。完膚無きまでに打ちのめされたとき、タイソンが唯一すがりついたのは小さなマウスピース。札束と取り巻きに囲まれたあの最強王者との、何という落差の大きさだろう。私がそこで見たのは、豪華なガウンをはぎ取られた、1人の孤独なボクサーの姿だった。

1月16日の来日からタイソンの行動を冷静に振り返ると、負ける要素はいくつもあった。“世紀の大番狂わせ”という言葉は、いかにも突発事件のようなイメージを抱かせるが、タイソンは負けるべくして負けたのだと思った。いや、来日前、もしかすると88年6月にマイケル・スピンクス(米国)との全勝対決を制して、名実ともに史上最強の称号を手にした時から、すでに堕落は始まっていたのかもしれない。

「タイソン敗北」を想定していなかった私は、用意していた数ページに及ぶ予定原稿がすべて使えなくなり、途方に暮れた。そして、デスクとの長い打ち合わせを終えた直後、事態が再び急転した。「試合はタイソンが勝っていた。結果について再調査中」。記事に取り掛かっていた私のもとに、耳を疑う一報が飛び込んできた。【首藤正徳】

WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 10回、マイク・タイソン(左)からダウンを奪うジェームス・ダグラス(1990年2月11日撮影) 
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 10回、マイク・タイソン(左)からダウンを奪うジェームス・ダグラス(1990年2月11日撮影) 

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WBC・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 8回、ジェームス・ダグラス(左)に右アッパーを浴びせダウンを奪うマイク・タイソン(1990年02月11日撮影)
WBC・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 8回、ジェームス・ダグラス(左)に右アッパーを浴びせダウンを奪うマイク・タイソン(1990年02月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ マイク・タイソン対ジェームス・ダグラス 8回、ジェームス・ダグラス(左)からダウンを奪いコーナーでふてぶてしい表情で見つめるマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ マイク・タイソン対ジェームス・ダグラス 8回、ジェームス・ダグラス(左)からダウンを奪いコーナーでふてぶてしい表情で見つめるマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ マイク・タイソン対ジェームス・ダグラス 10回、ジャームス・ダグラス(手前)の右フックを浴びバランスを崩すマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ マイク・タイソン対ジェームス・ダグラス 10回、ジャームス・ダグラス(手前)の右フックを浴びバランスを崩すマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 10回、ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 10回、ダグラスからダウンを奪われKO負けしたマイク・タイソンはダメージからレフェリー(左)に寄りかかる(1990年2月11日撮影)
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ マイク・タイソン対ジェームス・ダグラス 10回、KO勝ちし両手を浮き上げ喜ぶジャームス・ダグラス(右) 左から2人目はKO負けを喫しレフェリーに抱えられるマイク・タイソン(1990年2月11日撮影) 
WBA・IBF・WBC世界ヘビー級タイトルマッチ マイク・タイソン対ジェームス・ダグラス 10回、KO勝ちし両手を浮き上げ喜ぶジャームス・ダグラス(右) 左から2人目はKO負けを喫しレフェリーに抱えられるマイク・タイソン(1990年2月11日撮影)