【再建ワセダの箱根を追う〈12〉】悪夢と試練を越えて/8、9区
早稲田大学競走部は、48回連続93度目となる箱根駅伝を総合7位で終えた。OBの名ランナー花田勝彦(52)を監督に迎えて2季目。「-Rebuild-再建ワセダを追う」と題し、優勝13回の名門の再建に取り組むチームを追ってきた連載は、2024年年始の箱根駅伝の復路へ。8区には全日本大学駅伝の悪夢と向き合った伊福陽太(3年)、9区には「早稲田から世界へ」の多様性を示した主将の菖蒲敦司(4年)が駆け抜けた。(敬称略)
陸上
試練再来
デジャブのようだった。
「一緒やん」
伊福は思わず心の中で嘆いた。
9位でタスキを受け取ってすぐに、ある光景が頭をよぎった。
芦ノ湖の一斉スタートの影響で、見た目の順位と実際の順位は一致しなかったが、前後には多くの選手が走っていた。背中が見える位置と、背中を見せる位置。そして、なにより10位までが得るシード権がかかる位置。
それは約2カ月前の伊勢路、全日本大学駅伝の最終8区を走りだした状況と酷似していた。
悪夢の再来、それを乗り越えろと箱根路がいわんばかりに、記憶は呼び起こされた。
伊勢路の悪夢
遠く、呼び掛ける声は聞こえるが、体が反応しない、口は動かせない、まぶたを開けることもかなわない。
激しくなった雨が、震える体を横たえたブルーシートをたたく音もおぼろげだ。
「救急車に乗せられて点滴を受けている時からです、はっきり覚えているのは」
記憶はレースの序盤から定かではなかった。
最長区間の8区を任され、スタート時には7位の東京国際大と同タイム、9位の創価大とは4秒差の接戦だった。8位以内のシード権へ、脱落するのは1校。重圧に暑さが重なったからか、原因は1つに絞れないが、開始直後から足に力が入らなかった。
予兆はあった。
「アップの時から『なんか暑くない?』って感じていて」
三つどもえの心理戦に持ち込みたい前段階で、体が異変を訴えてきた。焦燥感が余計に歯車を狂わせていく。
脱水症状だった。
意識もうろうの中で途中棄権だけは避けようと、足は動かした、ではなく動いていた。ゴールの伊勢神宮に帰ってくると、仲間に抱きかかえられて、そのまま駐車場の待機エリアのブルーシートに運び込まれた。
順位は26人中、区間19位。2人に抜かれ、10位だった。
救急車の中でタスキを目にして現実を知った。悔しさを抱けないほど、レースの事は頭から抜けていた。
「病院に運ばれたんですけど、だんだん歩けるぐらいにはなってきて。その日のうちに帰ろうということになりました」
特急から名古屋駅で新幹線に乗り継いで、埼玉・所沢の寮に着いたときには日付が変わった午前1時頃。自室のベッドに横たわった。
「それが日曜日で、そこから木曜日までほぼベッドの上にいました」
シード権を失った責任を背負い込み、ダメージが残る体は活動を拒否した。食事も2食は食べられない。トイレ以外は長い長い失望の時間が流れていった。
重なる苦難
沈む時間をベッドの上で過ごすのは今季初めてではなかった。
5月、突然の不調に苦しんだ。
「寝ようと思っても、寝ようと思っても、寝られなかったですね」
練習を終えて、体は疲れて回復を求めているはずなのに、いつまでも入眠できない。
「たぶん、オーバートレーニング気味だったんだと思います」
「一般組」から飛躍したのが2年生。部員で随一の走行距離を力に存在感を大きくし、箱根も経験できた。
「3年生へ向けたモチベーションは上がったんですけど、多分体がついてこなかったのかな。正直2年でだいぶ上がってたので、ずっと上がり続けることはない、どこかでちょっとは落ちるだろうなって自分でも予想してましたけど。思ったよりも、でっかいひずみが来てしまったので」
原因は不明だが、眠れない日々だけが続いた。練習量を抑え、復調の兆しを探る。ただ、一向に訪れない。気づけば季節は夏。2カ月が経過しようとしていた。
各自が目標を書くボードにはこう記した。
「ふっくらする」
体重も落ち、走りに迫力を生む大きな肩幅を揺らすストライドを生んでいた筋肉も、明らかにそがれていた。少しのユーモアを文字に込めるのが精いっぱいだった。
夏合宿では貧血、じんましんにも襲われた。
「フルボッコでした」
ただ、何とか食らい付いた。9月28日、早大記録会で5000メートルの自己記録(14分7秒53)をマークしたことが1つの浮上のきっかけになった。
出雲駅伝はメンバーから外れたが、10月15日のレガシーハーフマラソンでは悪天候の中で63分01秒。
「だいぶ戻ったかなと思いました」
当初は予定になかった全日本大学駅伝は、他選手の不振によって予定変更の出走だった。
そこで再びベッドに長く横たわる結果が待っているとは露にも思わなかった。
〝雪辱〟の快走
「正直に言うと怖いっちゃ怖いです。まだハーフの距離は、うん、怖いですけど、まあ、でも、もうそんなことは言ってられないですし、切り替えてはいるので」
箱根を走る前に本心をのぞかせたこともあった。だが、2年連続となった8区を走りだせば、再び同じようなシチュエーションがやってきた。
あおられる恐怖心。試されるかのようだった。逆に考えれば、同じ結末を迎えるのか、もうベッドは2度と御免と吹っ切るのか。好機とも言えた。
「アップでの違和感はなかったですから」
前年の経験が冷静さを生む。すぐ後ろに6秒差でタスキを受けた明治大の綾一輝(1年)の気配を感じながら、思案した。
「追いつかせようかなと思ったんですけど、ただそこでペースを落としても。明治は芦ノ湖は一斉スタートだったので、見た目の順位よりは差があったのもわかってました」
体に過剰な熱さはなく、頭は冷めていた。
「狙うべきは前ですよね。自分が今どこ走ってるかは正確にはわからないので、ガンガン走って、流れ変えないといけないな」
再びのシード権争いの渦中に、全日本の二の舞いは踏まない。
3キロ付近で明治大に並ばれ、5キロを過ぎで帝京大とも集団を形成することなった。
「マイペースでいこう」
それだけを念じた。思えば、不眠状態が続いた夏前からの持ち直していった時期にも、割り切ったマイペースこそが鍵だった。
「全部の駅伝に出られるかわかんなかったんで、だからもう自分のペースでやろうと。走りたい時に走り、『まあ今日はこれぐらいでいいか』みたいな感じの日もありました」
それでも、月間の走行距離はチーム1位だった昨年度とは大きくは変わらなかった。レベルは一段階上がっていた。約2カ月間の停滞を受けてもなお、そがれてはいなかった努力の結晶でもあった。
想定したペースを刻んでいった。
「沿道の人の数を見ても去年よりも明らかに多かった。声援が大きくて、運営管理者からの声が聞こえないくらいでした」
意識ははっきりと、視界も広い。
この日の唯一の冷静さを欠いた場面はゴール直前。タスキを手に取ろうとしたが、ウエアに引っ掛かった。力強く引っ張ると、手からスルリとこぼれ落ち、地面に。走りを急停止してUターンしなければならなかった。
「タスキを落とさなければ区間4位だったんですよ」
区間5位の1時間4分56秒は、前年(1時間5分20秒)を上回ったが、惜しむのは落下のミス。
ただ、悔しがることすらかなわなかった全日本に比べれば、そんなアクシデントさえも笑って振り返れる。何より、今度はチームに勢いをもたらせた。
「満足はしていないですけど、長距離への悪いイメージは払拭(ふっしょく)できたかな」
もう安眠できる。
「落としたのは、来年もっとしっかりしろよってことですよ、たぶん」
箱根路がそう言っているように感じる。
試練に打ち勝った。順位を1つ上げて8位。胸を張って9区へと拾い上げたタスキを渡した。
■■■■■8区 伊福(区間5位)8位で9区菖蒲へ■■■■■■
伝えたかった感謝
雄弁ではない性格だ。
主将としてのありさまは、「背中で語りたい」が性に合っていると思ってきた。
小学校中学校は野球部で、高校は陸上部で。主将には慣れているが、多くを語ることはしてこなかった。
ただ、この時は選手の代表という立場でどうしても強調したいことがあった。
復路を7位で終えて、ゴールエリアの大手町のとあるビルの一室で行われた報告会。
学長ら関係者が立ち並び、会の冒頭で2日間の戦いを振り返る花田の話が終わった後に、マイクの前に立った。
視線を参加者の後方に送る。そこにはサポート役に回った仲間、後輩の顔が見えた。
伝えたいことは決まっていた。
「クリスマスのアクシデントがあり、いろいろ状況が変わる中で、このような結果でまとめられたことは、1年間やってきたことがしっかりと成果として出すことはできたのではないかなと思います。選手の10人ももちろん頑張ってくれましたが、ここであえて名前を出すとしたら、ここまで支えてくれた北村、佐藤、伊藤。この3人は(メンバーから)外れたのが分かりながらも、チームの士気を下げないように行動してくれ、選手と一緒に戦う気持ちでやってくれたことも繫がってここまで来られたと思ってます。本当にありがとうございました」
インフルエンザにかかった北村光(4年)と伊藤大志(3年)、不振を抜け出せなかった佐藤航希(4年)への感謝だった。
走った者は部屋の前方に陣取り、参加者と向き合う。走れなかった者は参加者の後ろで、その背中越しに走った者を見つめる。
皆で戦えた時間があったのだろう。「あえて」の言及は、その2つの立場にあった隔たりを埋めるように響いた。
16人のエントリーから漏れた濱本寛人も含めて最上級生となった同期は7人。一体感という言葉からはこれまでは遠い世代だった。
ただ、出雲、全日本と後輩をけん引できず、追い打ちをかけるような病魔の危機に、最後の最後に、7つの個性が同じ方向を向けた。
「4年生の意識が変わってくれたので、そこの点では、僕が引っ張るというよりは、4年生全体で最後は行動で引っ張っていけたのかなと思います」
それがうれしかった。
器用さと得意種目
自身は、個性を見つけられた4年間だった。
「ここ最近までは、花田監督が来るまでは、将来はぼんやりしてたというか、明確的なものじゃなくて。口だけで『世界で』と言ってしまっていたのかなと思います。花田監督がきて、ユニバーシアードの代表になれ、日本選手権でも上位を取れて。他の大学なら3障(3000メートル障害)をやることが否定されるような大学もあるのかなとは思うんですけど、早稲田を選んでのびのびやらせてくれたのはほんとに良かったなって。」
高校時代からの悩みは、得意種目がないことだった。幼少期にさかのぼってみれば、それは器用さと置き換えられる性質ではあった。
山口県光市で生まれ、小学校時代に参加していたのが県の人材発掘プロジェクトだった。学校に縛られずに、県がオリンピック競技で活躍できる選手を探す、育てる「YAMAGUCHI ジュニアアスリートアカデミー」に選ばれていた。母がたまたま見たチラシがきっかけだった。
身体能力試験に受かって参加したのが小学4年生。そこから毎週、集まった20人ほどの仲間とさまざまな競技にいそしんだ。バスケットボール、バドミントン、ハンドボール、夏は陸上の大会に出て、冬になれば駅伝も。
「器用だったというか、いろんな種目をうまくこなせてたと思うので、本当に毎回行くのが楽しかったです」
その後に進学した浅江中学校には、2人の先輩がいた。それが学校の誇りでもあった。
アトランタ、シドニーの2大会で5000メートル代表だった市川良子、シドニー大会マラソン代表だった国近友昭。2人のオリンピック選手をたたえる記念碑は、校門左手の植え込みに設置してあった。
部活動では野球に打ち込んだが、引退が決まった後の3年生の冬に、陸上部の顧問の小野美登里からの熱烈な勧誘で駅伝で県大会に出場。高校の進路を迷いながら迎えた高校の志望校を学校に伝える前夜、2人の五輪選手を育てた教諭の山村進から言われた言葉が最後の決め手となった。
「陸上なら、お前は世界を狙えるよ」
翌朝、志望校には県内の有力校、西京高校と書いた。そうして本格的な陸上人生が始まった。だが、そこから悩みは始まった。
「高校の時も、何やればいいんだろう、みたいな。どれもほんとに7、8割ぐらいなら人並みにできるので、突き抜けられない、専門種目が存在しないのが悩みでした」
小学生から中学生まで通ったアカデミーでも同じ。どの競技をやっても2、3番手が常で、陸上も同じだった。1年時は1500メートルでインターハイへ。秋口からはコーチの勧めで3000メートル.障害に取り組むようになったが、飛び抜けた結果は残せなかった。
「1500メートルは楽しいなと思いながらしてましたけど、それ以降は長いなと思いながらやってました」
障害への適性は、体育でハードルを飛ぶ姿から見いだされていたが、それを自覚するようになるには、しばしの時間を要した。
それが早稲田に入学し、上級生となってからだった。
昨年6月の日本選手権では自己記録の8分28秒16で3位。レース直後には、こう誓った。
「世界、世界と言ってきたんですけど、それは口だけだったのが、現実に近づいてきていると思うので、来年以降はパリ五輪というのは現実的な目標として立てていいのかなって思っています」
おぼろげだった「世界」が明瞭な輪郭を帯びていった。
ラストチャンスへの使命感
突き抜けることができなかった人生で、その未来の可能性をようやく信じることができた。
「早稲田から世界へ」の標語の中で、その最短距離を見つける事ができた学生最後の日々。
同時に主将としての責務も感じながら、結果で仲間への鼓舞を誓ってきた。
秋以降、出雲、全日本と十分な結果は残せなかった。
「箱根はもしかしたらシード権も危ないんじゃないかなとは思ってて。全日本も落として箱根も落としたら歴史に残ってしまう。プレッシャーは少なからずあったのかな」
体は正直だった。箱根路の2、3週間前から下痢が続いた。
「何かしらストレスかかってたんだろうなと。変なものを食べてもこんなに続かないよなと思いながら」
最中、仲間がインフルエンザを発症した。チームの浮つきを感じ、すぐに伝えた。
「全員で戦うよ」
自発的に士気を下げないような行動を取ってくれた同期に感謝しながら、1月3日、胃薬を2錠服用して、8区の伊福を待った。
実際の順位は8位、見た目では帝京大がすぐ後方にいた。
「帝京はタイム差があったので負けても良いと思いながら、前に創価大が見えていたので、そこを追いました」
昨年、3年生にして初めて走った箱根は、それまでの見立てを裏切る感情を生んでいた。
入部時には特別な思い入れはなかった。主戦距離は定まっていなかったが、トラックで勝負する4年間と決めていた。
実際に走ってみると、切れ目のない沿道からの声援に、早稲田の名前を声に出して応援される現実に、大会規模の大きさを肌で感じた。4年生にして主将として迎える箱根への思いを、トラックシーズンを終えた6月に語っていた。
「今年に関して言えば、陸上をやっている中でこんなに注目される大会はないと思って、それを経験できる最後の年、ラストチャンスだと思ってます。もちろん4年生、主将としてやれる年の最後なので、そういう面から言えば、駅伝を頑張んなきゃいけないなっていう気持ちはあります。僕個人のためというよりは、早稲田のために、主将としてやらなきゃいけない仕事はあるよなと思ってます」
2度目の箱根、同じ9区。その思いを込めた。
12秒差で前を行く創価大の背中がわずかずつ大きくなっていく。復路最長区間を、1年ぶりの大声援を受けながら駆け抜けていった。
残り5キロ、いよいよ創価大を捉えて順位を1つ上げて7位に。
「本当にここまでの過程で絶対に後悔しないように準備しようと決めてやってきたので。そこまでの過程でやり切ったので、今日自体もう100%出したかなと思います」
1時間10分22秒、区間は11位。シードの安全圏へと押し上げて役目を終えた。
2025年世界選手権へ
「早稲田から世界へ」
その言葉には多様性があってもいい。
箱根駅伝というルートを第一としなくても、「世界」の目指し方はある。それが菖蒲が見せた姿だった。
卒業後は花王に進み、高岡寿成監督の下で、3000メートル障害に特化していく。
「そこでつながりもあり、いろいろな情報を教えてもらっています」
目下、目指していくのは25年、東京で開催される世界選手権の日本代表になる。
「早稲田で主将をできたことは人生でも誇れることです」
経験を糧に、さらに突き抜けるために、ようやく見つけた生きる道を駆ける。
■■■■■9区 菖蒲(区間11位)7位で10区菅野へ■■■■■■
(つづく)
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阿部健吾Kengo Abe
2008年入社後にスポーツ部(野球以外を担当します)に配属されて15年目。異動ゼロは社内でも珍種です。
どっこい、多様な競技を取材してきた強みを生かし、選手のすごみを横断的に、“特種”な記事を書きたいと奮闘してます。
ツイッターは@KengoAbe_nikkan。二児の父です。
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