成田空港の出発ロビーにボディーガードに囲まれたタイソンが姿を見せた。あの“世紀の大番狂わせ”から一夜明けた1990年2月12日午前。両目の腫れを隠すためサングラスを着用しているので彼の表情は分からない。ただ、白いTシャツにブルージーンズの上下というラフな装いで、27日前に真っ白なミンクのコートに身を包んで来日した時とは別人のようだった。コートとともに、背負い続けた重荷まで取れたようで、どこかさっぱりしたようにも見えた。
私たち数人の記者が声を掛けると、彼の方から歩み寄ってきた。この時、どんな会話をしたのか、あまり覚えていない。ただ「オレは必ず復活してみせる。絶対にあきらめない」と話したタイソンの言葉ははっきりと記憶している。「最後に一緒に写真を撮ってもいいか」と聞くと、彼は「もちろんだ」と言って私の肩に右手を回してきた。3つのベルトも、最強王者の称号もすべて一夜にして失った彼は、周囲の人たちまでも離れていくことを恐れているのではないか。私はそんな気がした。
東京の試合をプロモートした帝拳ジムの本田明彦会長の計らいで、私はタイソン一行のいる空港ラウンジに入れてもらった。数十人の取り巻きたちが、今や無冠となった主人を囲んで何やら盛り上がっていた。タイソンも笑っていた。その光景を見て、タイソンが大枚をはたいてまで大勢を引き連れている理由が何となく理解できた。「引退したら真っ先に何がほしいか」という問いに「ファミリー」と即答した時の彼の顔が頭をよぎった。
『勝負保留』の発表から2日後、WBCのホセ・スレイマン会長がジェームス・ダグラスを世界王者として認める声明を発表した。その翌日にはWBAも理事会メンバーの電話会談で、ダグラスを新王者に認定した。この結果を受けてタイソンは「タイトルを失ったことについて何も弁解するつもりはない。ただこの敗北は一時的なほんの小さなものだ。私は再びチャンピオンになる」と公式コメントを出した。それから1カ月半後、6月16日に米ラスベガスで行われるノンタイトル10回戦でタイソンが復帰することが発表された。
初めての敗戦からわずか4カ月。ラスベガスで見たタイソンは、ほおがこけてかつての精悍(せいかん)な顔つきに戻っていた。4月初旬からトレーニングを再開して、ダグラス戦では100キロを超えていた体重を98キロ台まで絞り込んでいた。よほどハードな練習を積んだのだろう。筋肉が浮き上がって見えた。公開練習で切れのあるパンチをミットに打ち込んだ元王者は「同じ練習を何度も繰り返してきた。どんな相手でも全力を尽くさなければならない」と真顔で言った。
トレーナーは一時代を築いた元世界ヘビー級王者ラリー・ホームズも担当した鬼軍曹リッチー・ジャケッティに代わっていた。5月2日にはすでに別れた愛人が、男児を出産。タイソンは「結婚するつもりはないが、ロスに家を買って、養育費も出す」とコメントし、恩師カス・ダマトの名前を継承する「カス・ジュニア」と名付けた。元愛人の子どもとはいえ、待ち望んだ「ファミリー」だったのかもしれない。この4カ月で彼だけではなく、取り巻く環境も変化していた。
6月16日、タイソンはゴングと同時に、84年ロサンゼルス五輪ヘビー級金メダリストのヘンリー・ティルマン(米国)に襲いかかった。直線的に突進して力ずくでパンチを振り抜く。“攻撃こそ最大の防御”と信じ、ひたすら自らの腕力だけを頼みにした殴り合い。恩師カス・ダマトとともにつくりあげた、あの攻防一体の精密機械のようなタイソンとは別人だった。1回2分47秒、横なぐりの右フックがティルマンのこめかみを打ち抜いて、試合は終わった。タイソンはボクシングをする前に試合を終わらせた。
ダグラスとの試合前、タイソンは自分本来のボクシングを取り戻せず、悩み、もがいた。その末に、38戦目にして初めての屈辱を味わった。彼はあの一戦で、もう過去の自分には戻れないことを悟ったのではないか。3つのベルトに加えて、丹精込めてつくりあげたボクシングまで失った。23歳にして自らの老いを知ったタイソンには、ただ拳を振り上げて、前に打って出るしか道はなかったのだ。目の前で彼の復活を見届けた私は、マイク・タイソンの最強神話は終わったのだと悟った。【首藤正徳】(おわり)